21:きみのたったひとつになれない



 私情をベンチへ持ち込まない。帝光で三年間マネージャーをしていて体の芯まで染みついた習慣であり、信念だ。
 対誠凛の試合中、優乃は一切不安を見せなかった。今までと全く同じように、体の内側のエネルギーを全て出し切ってベンチから声を出し、マッサージを行い、その他マネージャーとしてできることを全て行った。
 ブザーが鳴った。
 電光掲示板は、秀徳の惜敗を示していた。

 ホールから出るまでは、秀徳の面々と一緒にいた。自分が何を聞き、何と言ったかは、殆ど覚えていなかった。ただ、二軍の山田に「外出てくるね」と伝えたことは、覚えていた。
 コンクリートのひさしから、水滴が絶え間なく零れ落ちていく。もたれかかった灰色の壁から伝わる冷気で、優乃の体は冷え切っていた。
 今にも落ちてきそうな空を見つめて、ゆっくりと目を閉じる。
「水谷さん」
 優乃の視界が黒く塗りつぶされた瞬間に、優乃の名を呼ぶ声が耳に届いた。
 優乃は、瞼を持ち上げた。薄水色が雨の中静かにこちらを見ている。
 優乃は小さく唇を開いて、閉じた。
 黒子は何も言わない優乃に、何も言わなかった。雨の音だけが変わらず、無感情に鳴り続いている。コートを包む歓声とは、全く無縁の世界だった。
「……こんなことを、ついさっきまで敵だったボクが言うのは、失礼かもしれません。でも」
 黒子は、一度口を噤んだ。
 優乃は黒子を見ていた。雨が建物を、コンクリートを、叩いては弾けて消える。
 口の中で様々な言葉を吟味した末に、黒子は言った。
「……大丈夫、ですか」
 ただ雨を映す鏡のようだった優乃の瞳に、初めて表情が浮かんだ。先日黒子がちらりと目にした、秀徳のジャージを着た優乃の瞳とは違った。
 見覚えのある瞳だ。息をのんで、唇を噛んだ黒子に優乃は小さく首を傾けた。
「心配してくれて、ありがとう」
 美しい漆黒の双眸に、色濃く絶望が覆い被さっていた。その瞳のまま、優乃は口角を僅かに吊り上げた。
「今傍にいると、私、ものすごく暗い気分にさせちゃうと思う」
「ボクが自らここに来たんです」
 間髪を入れず、黒子ははっきりと言い切った。
「ボクでよければ、お話聞かせてもらえませんか」
 聞いているだけで全身が冷たく濡れていきそうなほど、雨音は大きかった。血の気の失せた優乃の唇がゆっくりと開かれた。
「黒子くんは本当に、人のことちゃんと見てくれてるよね。きっとそれが、チームメイトとして認められることにもすごく繋がってる」
 オレンジ色のジャージの袖から、だらりと指先が伸びる。力は全くこもっていない。もう握る機会など無いかのようだった。
 優乃はそれに目を落としてから、改めて黒子を見た。
 彼女の瞳は、最早鏡ではなかった。くすぐったくなる程の憧憬と尊敬、そしてぞっとするほどの嫉妬と羨望とが綯い交ぜになって、真っ直ぐに黒子に突き刺さった。
「私は……」
 雨音より小さく紡がれた声は、雨音の中で何よりはっきりと聞こえた。
「私は、チームに入りたかった。“マネージャー”という立場にいる人間としてじゃなくて、私としてチームに入りたかった。帝光では、入れなかった」
 優乃の静かな声こそが、雨音の空間を支配していた。
 黒子は黙って聞いていたが、最後の一言には異を唱えた。
「それは、違います。水谷さんは、帝光の一員でした」
「それは私が一員だったんじゃないよ」
 優乃の瞳は、微塵もその色を変えなかった。
「例えばさつきの代わりに、他の人がマネージャーとしてベンチに入ったら、その試合には確実に悪影響が出る。でも私の代わりに誰かがマネージャーをやったとしても、何も変わらない」
 濁った曇天を映す水溜まりへ、雨粒は次々身を投げ出していく。
「私が一員なんじゃなかった。一人分、マネージャーの枠が埋まっていただけだよ」
 優乃の声は、どんどん揺らぎを失っていった。まるで鳴りやまない雨音のように静かに、一定になっていく。
「マッサージの研究も、テーピングの練習も、手を抜かずに必死にやった。データ分析も情報収集も、やれることは何だって。でも、私は交代のきく存在のまま、三年間ずっと、黒子くんたちを見ているだけだった」
 一つ、優乃は静かに呼吸をした。
「秀徳でもね、チームのために少しでも力になればそれで良いと思ってマネージャーをやってきた。バスケからもマネージャーからも離れることなんてできなかった。代わりがきいたとしても、それでもみんなを手助けしながら、同じ場所を目指せたら良いと思ってた」
 優乃の視線が初めて黒子から外された。
 彼女は右手の甲を見ていた。
「……欲が出たの」
 忘れていたはずの喉の渇きを思い出したのだ。
「私があの場所にいられるのは、ただの結果でしかないことを忘れた。錯覚しちゃったの。もしかしたら……代わりがいない、存在に」
 優乃は顔を上げた。彼女は眉を歪めて笑っていた。
「私……私、今からすごく嫌なこと、言う」
「大丈夫。聞きたいです」
「……今日の試合。さつきがこっちのマネージャーだったら、黒子くんたちに勝てたかもしれない。最後の火神くんと黒子くんのプレーは無理でも、その前の日向さんのスリーポイントは、さつきならたぶん、止めた」
 雨の音が彼女を包む。真っ黒の瞳を縁取る睫毛が静かに伏せられて、その表情は誰にも見えなくなった。
「そういうこと、だよ」


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愛しくなる衝動