誠凛に負けたばかりの秀徳の二人にとっては少し複雑な心境での食事だっただろうが、黄瀬にとってはかなり楽しいひと時でもあった。もんじゃ焼きは美味しかったし、黒子とも新たなライバルとも、少しの間だが落ち着いて話ができた。
少し残念だったのは、優乃がいなかったことだ。高尾が自分たちははぐれたと言っていたし、性格からして優乃はきちんと先輩の方についていったのだろう。強引にでも連れてきてくれればよかったのに、と思ってはみたが仕方ない。
ふと、きつく握られていた小さな拳を思い出す。優乃は対誠凛戦に、並々ならぬ気持ちを注いでいるようだった。声を掛けづらいような状態だったのかもしれない。
もう一つ、少し気になったことがあるとすれば、秀徳の高尾がやたらと携帯を気にしていたことだった。彼は気さくで、場の雰囲気にすぐ溶け込めるタイプらしく、スマートフォンを確認するのも場の雰囲気を損なわないタイミングだったが、かなりの頻度でポケットから取り出していたのは目に付いていた。何かあったのだろうか。黒子もそれには気がついて、少し気にしていたようだった。
お好み焼き屋の前で誠凛の面子と別れて駅へ向かう。行きは嵐になりそうな勢いで降っていた雨も、今はすっかり上がっていた。空にはちらちらと星も見える。
「先輩駅どこまでっスか?」
「ウチの学校から七駅向こうだな」
「結構遠いんスねー」
足元で水溜まりが音を立てる。
角を曲がると、黄瀬から見て道路を挟んだ左手側に公園が見えてきた。小ぢんまりとしていて、遊具はブランコと奥の方にあるすべり台しかない。ベンチも、ブランコの少し奥に設けられた一脚のみだ。幼い頃、近くにあった公園と似ていた。
何となく公園を眺めていた黄瀬は、はたと立ち止まった。黄色の瞳が大きく見開かれる。
心臓が凍り付いたような心地だった。
「か、笠松先輩ちょっとオレ寄り道するっス!!」
「はあ?!」
「先帰っててください!」
叫ぶように言って、黄瀬は返事も聞かずに道路の向こうへ駆けだした。
開かれた透明のビニール傘が、まるで彼女を守るように覆い被さっていた。
ベンチの上で一人、優乃は膝を抱えてうずくまっていた。秀徳のジャージ姿のままだ。顔は腕にうずめられていて、よく見えない。
「優乃っち!!」
公園に駆け込んだ黄瀬は、慌ててその名前を呼んだ。電灯がちかちかと点滅する。
優乃の肩が小さく揺れた。
黄瀬は胸を撫で下ろした。優乃へと駆け寄る。ビニール傘を畳んで、傍らに置く。
一度ためらってから、黄瀬は優乃の肩にそっと手を置いた。
ジャージは少し濡れていた。傘でも遮れないような雨に当たったのだろうか。
(ってことは、もう何時間もここに居る……?)
「優乃っち」
黄瀬がもう一度名前を呼ぶと、優乃はようやく顔を上げた。
涙の跡は、無かった。
これなら、泣いてくれていた方がましだと黄瀬は思った。見つめられると心がふわっと温かくなる瞳は永遠に失われたように気配すらなく、彼女は見る者の胸を突き刺すような、痛ましい顔をしていた。
(この、表情……)
帝光時代、一度だけ見たことがある。当時の黄瀬の心を大きく揺さぶった表情だった。
「黄瀬くん……」
いつだって耳に快い声は、ひどくか細かった。
黄瀬は、とりあえず羽織っているブレザーを脱いだ。
「女の子が体冷やしちゃだめっスよ」
優乃の目が、黄瀬の瞳を見上げる。黄瀬はとにかく明るく笑ってみせた。
「ね。オレ優乃っちが風邪引いちゃったら嫌だし……あ、あと秀徳のみんなだって心配するっスよ」
その瞬間だった。
黒い瞳が美しい光を取り戻したように見えた。一粒雫が転がり落ちて、涙が溢れて光を反射しているのだと気がつく。
黄瀬は呆然と目を瞠った。ブレザーを彼女の肩に掛けた手が止まる。
「……っごめ」
優乃の双眸から、次々と涙が零れ落ちていった。彼女は眉を歪めて抑えようとしていたが、止まらない。とうとう両手で顔を覆いかけた。
黄瀬は我に返った。彼は素早く、そして出来る限り優しく優乃の両手を取った。細い指は少し雨に濡れている。
「隠さないで」
涙が浮かんでは零れていく黒い瞳が、丸くなって黄瀬を見上げた。自分のものより一回り小さな手のひらを、ぎゅっと握り込む。
「抱え込まないで、優乃っち。……オレに、ぶつけて」
黄瀬は、真っ直ぐに優乃を見つめた。
優乃の瞳いっぱいに溜まった涙が反射する光がちかっと点滅した。街灯が消えかかって、また点いたのだろう。片方の手を離して、頬の涙をそっと親指でなぞる。
ふ、と震える唇が息を零した。両目にみるみる溢れた涙は、たくさん頬へ零れ落ちていく。優乃の泣き方は静かだった。なかなか涙は止まらず、声が出せないようだった。
握っている方の手のひらに自然と力がこもった。彼女の泣く姿を見ていて、優しく包むことなどできはしなかった。泣くのが下手な彼女を抱き締めたくてたまらない。ぎゅうときつく握る。胸が締め付けられるように苦しかった。
「黄瀬くん」
「うん」
美しい黒の双眸が、黄瀬を見つめた。未だ涙は止まっていない。少し間を置いて、わななく唇が必死に言葉を紡いだ。
「どうしたら、黄瀬くんは、私を仲間に入れてくれた……?」
睫毛が一回瞬かれて、ぱたぱたと涙が落ちる。優乃の瞳に宿っているのは、切実な光だった。
「どうしたら、帝光のとき、私は黄瀬くんのチームメイトになれたんだろう?」
目の縁から零れた涙が、ゆっくりと黄瀬の親指を伝った。ゆらゆら揺れる優乃の瞳を、黄瀬は呆然と見つめていた。
(これ、だったんだ)
黄瀬は唐突に思った。
彼女が浮かべた、左胸の奥が凍り付くような表情と、黄瀬がうっすらと感じていた、穏やかな瞳の奥に見える一線の原因は、これだったのだ。
黄瀬は自分の瞳が優しく緩んでいくのを自覚した。
少し前までの自分なら、優乃の言った言葉はきっとさっぱり理解できなかっただろう。しかし、黒子と火神に負けて、必死になって練習して、チームの仲間たちとバスケをするのが何だか楽しくなってきた今は、違う。
黄瀬はしゃがんで、ベンチに座る優乃と目線を合わせた。手は離さない。
「優乃っち。オレ、二軍入って会ったばっかりのときはまだ“水谷さん”って呼んでたでしょ? で、今は“優乃っち”。一軍行って、少し経ってからかな」
優乃の瞳が瞬かれる。睫毛に乗った細かい水滴が、仄かな光に小さく煌めく。
「今日、誠凛と戦ってるとき、優乃っち最後まで声張ってた。マッサージだって、ドリンクとかタオルとかだって、チームのために……かっこよかった。試合と練習の違いはあるけど、帝光にいたときと同じように、バスケに対してずっと真剣なの、伝わってきた」
黄瀬は、一度蜂蜜色の目を閉じた。
いつもは優乃のことを、桃井を含めた他のキセキの世代や、今の部活仲間を見るのとは少し違う目で見てしまう。今だけ、彼は意識して自分の気持ちに蓋をした。かつての、そして今のチームメイトに向ける目と同じ眼差しで優乃を見つめる。
「オレ、尊敬する人には、“っち”って名前の後ろに付けて呼びたくなるんス」
優乃の瞳がぱっと見開かれた。どうやら、知らなかったようだ。
「オレは優乃っちのこと、もうずっと前から、すげー尊敬してる。あの頃はわかんなかったけど、今になって思うと優乃っちは、オレの大事なチームメイトだったっスよ」
優乃に笑いかけて、黄瀬はその手をもう一度、優しく握り直した。
直後だった。今まで力の入っていなかった優乃の手が、ぴくりと動いた。同じ体温になった優乃の指先が、そろりと曲げられる。
続いて彼女の指が、黄瀬の真似をするように彼の手をぎゅうと握った。
黄瀬は、全身が一気に熱くなるのを感じた。
「ありがとう……」
己の手に絡む指に、更に力が込められる。
こちらを真っ直ぐに見る瞳から、ぼろぼろと止まりかけていた涙が零れていた。
「黄瀬くん、ありがとう。……すごく、本当に」
唇が声を紡ぐ。
蓋が外れていく。いつだって、瞳と同じように透き通ったこの声を聞きたくて仕方なかった。
「嬉しいよ」
黄瀬は優乃の手を振りほどいた。その腕をそのまま、優乃の背中に回す。
黄瀬は思い切り、優乃を抱き寄せた。
(あーもうホント、マジで)
体中の血が沸騰しているかのようだった。
(大好き)
「秀徳ズリィっス……」
大好きな人が自分に本音を吐露して頼ってくれたのは、そもそも彼女が秀徳の仲間を大切に思っていて、思い悩んだことがきっかけだ。彼女は帝光時代からずっと悩みを抱えていたのに、その胸の内を彼女が自ら表面まで引っぱり出そうとしたのは、秀徳のマネージャーになってからだった。
呆気に取られていた優乃が我に返ったようだったので、黄瀬はそっと彼女から離れた。すっかり涙が止まっているのを見て、黄瀬の頬は自然と緩む。
「涙、止まったっスね」
優乃はぱちぱちと睫毛を上下して、少しはにかんだ。黄瀬の胸がきゅうと締め付けられる。
大好きだった。もうずっと前から、気づいたときには目で追っていた。
今は学校が違う。しかしそんなことは関係ない。
(オレはこの子しかいらないから)
優乃は数時間ぶりにベンチから立ち上がった。彼女が手を伸ばす前に、黄瀬は優乃の荷物と傘とを持つ。あ、と呟く優乃の手を、黄瀬はすっと取った。
驚いて顔を上げた優乃の手を、きつく握る。
「このまま、家まで送らせてもらってもいいっスか?」
尋ねはしたものの、その手を離すつもりはなかった。
チームメイトとしての絆は、仕方ないから秀徳の彼らに譲ろう。
(けどこっちは絶対、誰にも譲らない)
街灯がちか、と点滅して、灯った。
愛しくなる衝動