29:呼吸すら忘れ、



 外から聞こえるじーわじーわという蝉の声は、部室の熱気をますます盛り上げていた。
「あつー……!」
 取り付けられている扇風機は熱く湿気た空気を掻き混ぜるだけだったが、無いよりは百倍マシというのが部員たちの総意だった。
 珍しく部室には一年生だけだった。絞れそうなほどの汗で色の変わったTシャツを、大きな手たちがまくり上げて脱いでいく。洗い立てのタオルに額を埋めたままロッカー前から動かなくなる者もいた。
「お前ほんとくだらないことすんのやめろよな」
「急に文句言うのやめてくださーい」
「急じゃねえよ! お前優乃さんにゆっくり熱中症って言わせてたろ!」
「はあ? バカだろ」
「ちょっとーウチの可愛いマネさんに何やらせてんのマジ」
「可愛いからじゃん! ちなみに不思議そうに首傾げて言ってくれましたー」
「死ね」
「ふっ羨ましかろう!」
「あんなに可愛いし良い子なのに彼氏いないってのが人類の夢すぎる」
「……ん? 彼氏はいるだろ?」
 爆弾は、突如投下された。テーピングテープを丁寧に巻いていた手がぴたりと止まる。
 カッターシャツのボタンを留めるのを放棄して、灰がかった目が山田を振り返った。
「え……は?」
「ええええ?!」
 むわっと蒸し暑い空気が一斉に動いて山田に詰め寄った。メッシュ生地のTシャツを脱ぎかけで手錠のように両腕に掛けたまま、山田は目をぱちくり瞬いた。
 何を知ってる? 洗いざらい吐け! 山田は部員たちの言葉に素直に口を開いた。
「いつからとかは知らん」
「相手は!? まさか部内とか……?!」
「黄瀬くん」
 今度は視線は一直線に緑間へ移動した。椅子に座って、彼は丹念に指先へテーピングを施している。睫毛の長いモスグリーンの瞳は、一瞬も指先から離れない。
「緑間、お前何か知」
「知らん」
 彼は一言でぴしゃりと会話を終わらせた。
 部員の一人が食い下がろうと口を開いたときだ。部室のドアが控えめに叩かれた。
 誰が叩いたかは明白だった。場が不自然に静まり返った。高尾は視界の端に、緑間が顔を上げたのをとらえた。
「どうした?」
 平気で返事ができたのは山田だけだった。扉越しに声がする。
 同じ声が高尾の脳裏に響く。「黄瀬くん?」
 (……うわ)
 なんだこれ。首筋の辺りが、奇妙に脈打っている。
「今開けてもいい? 忘れ物しちゃって」
「いいよ」
 そっと扉が開いた。全員の視線が真っ直ぐ向けられているのを見て、優乃は不思議そうな顔をした。
「……何か邪魔しちゃった?」
「うーん? よくわからん」
「そっか。静かだからちょっと不思議だった」
 唇が優しく弧を描くのを、高尾は灰色の目でずっと見ていた。
 各々動き出しはしたものの、部員は奇妙に口を噤んでいる。その隙間を縫うように、優乃は高尾の方へやってきた。
 高尾を見上げる黒い瞳は、宝石のようにきらきらしていた。夏のセーラー服の白が何だかいやに眩しかった。
「高尾くん」
「……え? あ、ごめん何?」
 優乃は少し困ったように、そして少し可笑しそうに、眉尻を下げて笑っている。
「足元のロッカー、開けてもいい?」
 ややあって、高尾は慌てて脇に退いた。
「そゆことね。わり、どーぞどーぞ」
「ありがとう」
 高尾が普段何も言わずとも察してさっさと動くためだろう。ぼうっとしてたね、と透明な声が笑う。
 優乃はしゃがんでロッカーの中を覗き込む。花みたいな匂いがふわっと空気を揺らす。首が傾いて、真っ白のうなじが晒される。
「あのさ、優乃」
 気がついたときには、声は零れた後だった。
「付き合ってんの? 黄瀬くんと」
 優乃が顔を上げて高尾を見上げるまでのささやかな一瞬が、地獄のように長い。
「付き合ってないよ。どうして?」
 首を傾げる彼女は、心底不思議そうな顔をしていた。
 むっとしたへばりつくような暑さが、一気に戻ってきた。ぶうんと扇風機が回り出す。首筋や背中を伝う汗を思い出す。
 高尾はぐっと拳を握った。ぷるぷると震わせながら、山田を振り返る。
「おーまーえーなー……!」
「え、あのとき言ってなかったっけ?」
「あのとき……って試合の会場でのこと? 言ってないよ、というかそんな話出てもいないよ」
「……あれ?」
「おい」
「テキトーなこと言ってウワサになったらどーすんだおまー!」
「よりによって黄瀬とかもう絶対面倒なことになりそう」
 いつもの姿を取り戻した部室を見渡して、優乃は全てを悟ったようだった。
「その話してたんだね」
「そー。ごめんな」
「誤解が解けてよかった」
 優乃は困ったように笑った。
「黄瀬くんに申し訳ないから」
 とん、と指で胸を押されたような感覚だった。一瞬言葉に詰まって、高尾は首を捻った。
 その間に、優乃は忘れ物のハンドタオルを手にくるりと彼へ背を向けた。
「それじゃあみんな、お疲れ様でした!」
 プリーツスカートが翻る。さらりと揺れて扉の向こうに消えた黒い髪は、とても綺麗だった。


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愛しくなる衝動