「あ、予鈴」
騒がしい教室に、チャイムの音が響く。優乃はペンを走らせる手を止めた。
椅子の背に両腕を預けて、優乃の机の上のプリントを見ていた高尾は顔を上げた。灰がかった色の目がきょとんとしている。
「あれ、もう?」
「時間全然足りなかったね」
スタメンか否かに関わらず、夏合宿に向けて一年生にはそれぞれ仕事が割り振られる。優乃と高尾は大役を授かっていた。彼らの采配が合宿の夜を左右するのだ。
「いやー、部屋割り超楽しいわ」
今朝練習後に渡された合宿所の構内図には、既にあちこち線が引かれていた。<うるさいと眠れない人はここ>柔らかく丁寧な筆跡の文字の隣に、上下逆の角ばった走り書きの文字が並んでいる。<真ちゃん絶対ココ!>
「残りどうしよう?」
「んー、今日練習の後に仕上げちゃおーぜ。明日の帰りまでに大坪さんに渡さないといけねーし」
「うん……あ、待って。今日ミーティングじゃなかった?」
「あーマジだ。忘れてたわ」
「高尾ーそこ俺の席ー」
「おーあんがとなー」
「って座り続けんな!」
悪戯好きの子供のように笑いながら、今度こそ高尾は席を立った。誰にでもフランクでよく笑う高尾は、優乃のクラスにすら既に馴染んでいる。
「合宿?」
「そー。三日間たっぷりしごかれんの」
「水泳部もあるよね?」
「それがウチは合宿ないんだよ。夜更かししてダレるからって顧問が去年ブチ切れたらしい」
「うへえそんなことあんのか」
「俺も花火とかやりたかったよ……」
「いや、ウチやんねーけどな」
「女湯のお湯の音にドキドキしたかった……」
「お前にとっての合宿って何なの?」
平日の昼過ぎのバスは、人がまばらだ。
クッションの少し硬い座席に深く腰掛けて、先程から山田は眠りこけている。バスに乗り込んですぐに眠り始めてしまった。バスの振動に合わせて、うつむいている頭が微かに揺れる。
二人は練習時間中に買い出しへ出ている。監督が知ったら激怒しそうだが、山田の気持ちは優乃にもよくわかった。冷房が心地良い。
優乃たちが目指す大型のスポーツ用品店が入ったショッピングモールまでは、あと二駅だった。大通りを行く小学生や自転車の女性を次々と追い越していたバスが、ゆっくりと減速し始める。運転手の低い声が次の停留所を読み上げ出す。
(そろそろ起こそうかな)
そう思った瞬間、バスがかくんと縦に揺れて止まった。はずみで山田の頭が大きく揺れて、優乃の肩に乗る。どうしよう、と優乃が固まった直後に、よく知った声が聞こえた。
「あ」
顔を上げる。薄水色の瞳と目が合った。
「黒子くん……」
「お久しぶりです。……ええと、ボク、邪魔ですか?」
「邪魔じゃないし、どうしたらいいか教えてほしいです……」
黒子と優乃の間にいる山田は、隠しもせず大あくびをした。三人の内誰の知人が目撃しても、間違いなく頭の上に疑問符が浮かぶ顔ぶれだったが、一番訳がわからないのは当人たちだった。
「部活仲間の人……なんですよね?」
黒子が困惑している。山田の雰囲気が、王者秀徳の厳格さとかけ離れているからだろう。自分の色を少しも変えないまま、秀徳の一員であり続けているのが、彼のすごいところだ。
「そうだよ。山田くん」
「どうも山田です」
「ど、どうも」
黒子はおずおずと会釈した。
大型ショッピングモールへ向かっていたのは、黒子も同じだったそうだ。「あと一駅だったのにバス?」問うた優乃に黒子は真顔だった。「もう無理でした。だって見てください、この日差し」
「うーん、確かに」著名評論家さながらに、山田は深く頷いた。
バスはショッピングモールの目の前に三人を降ろしていった。黒子が用事のある書店とスポーツ店とは、モール三階で隣接している。三人はそのまま連れ立って目的地へ歩き出した。
「なんて本を買いに行くの?」
「マイナーなので、知らないかもしれません。ミステリーなんですけど」
「ミステリーって人が死ぬやつ?」
「うーん」
「簡単に言ってしまえばそうですね」
「あー、じゃあおれ無理だ」
「グロがダメとかですか?」
「おれ、人が憎しみ合うやつ無理」
「そっちですか」
「山田くんらしいなあ」
視線を感じて横を見ると、黒子が澄んだ水色の目で優乃をじっと見ていた。不思議そうな優乃の表情を見て、黒子はかぶりを振った。目が逸らされる。
「なんでもありません。気にしないでください」
「うん」
ふっと優乃の脳裏に雨の音が蘇った。
黒子は、優乃の口に貼られていたガムテープをそっと剥がした。熱くて鋭い刃に裂かれるような痛みの後、自分が叫ぶことを、何者も邪魔していないのだと気がついた。
「ありがとう、黒子くん」
「何がですか?」
黒子は本気で不思議そうだった。きっと彼の中で、あの日のように人を救うのは、特別なことではないのだ。
「黒子くん、純文学も好き?」
「好きですよ。確か緑間くんもよく読んでたと思います」
「そっか」
「だからなのだよ口調なのか?」
「それは違うと思う」「思います」
黒子と優乃の声が綺麗に重なった。
愛しくなる衝動