32:笑っちまう



 ペットボトルも、その中の麦茶も、冷たくて心地良い。
 やわらかく煮込まれたように温まった頬へぴたりと冷たいボトルを押し当てる。思わず息が零れた。
 二階の階段脇には、短めのソファーが三台コの字型に並べられた憩いのスペースがあった。壁に沿って設けられた自販機は、ラベルどころかサンプルの並ぶ顔の部分まで明かりが消えていた。値段が高い上、コンビニが近くにあるからだろうか。
 麦茶の冷たさが頬へゆっくりと移っていく。同時にじわりと、足に滲むような疲労が存在を主張し始めた。
 優乃が目を閉じた直後に、足音が階段を上ってきた。
「あっつー……」
 よく知った声が忌々しげに吼える。ふふ、と笑みが漏れた。ペットボトルはそのままに、階段の方を振り返る。
 視野の広い高尾は、すぐに優乃に気がついた。気怠そうだった表情がぱっと明るくなる。
「おっ、優乃のソレいいなー。オレにもやらせて」
「いいけど、もうちょっとぬるくなってるかも」
 はい、と優乃が差し出したペットボトルを受け取った角ばった大きな手は、それをそのまま優乃の耳へ押し当てた。
「ひえ!」
「びっくりした?」
 悪戯が成功したときの手本のようなしたり顔だった。
 優乃は、高尾の手の上から麦茶を確保した。優乃の手の中でびくっと手の甲が脈打った。お風呂上がりの手は、優乃のものと同じで湯たんぽのように温かい。見上げた先の目は、珍しく少し揺れて見えた。
「へ」
「びっくりしたから、利子も付けて返してもらうことにした」
「利子、ってそれ、オレの手」
「そのまま離さないでね」
 麦茶はまだまだ冷たい。頬はひやりと快適で、右手は熱いくらいに温かい。贅沢な気持ちで目を伏せる。
 高尾は何も話さない。心地よい静けさに瞼の奥がとろりと溶け出してきそうだ。優乃は目を瞑りかけた。
「あのさ優乃」
 空白に落ちてきた高尾の声は少し低くて、静かだった。瞳を開いた先に、真っ直ぐに射抜くような灰がかった目があった。耳元でペットボトルの動く音がする。こめかみを掠めたのは、ボールでこすれて硬い指の腹だった。
「なに、話してたか聞きたい」
 ペットボトルの冷たさが、ごく短く、少しだけ近くなる。
「さっき。……黒子と」
 先程までと少し空気が変わったのは、優乃にもわかった。誠凛へのライバル心とも、少しだけ違う空気の張り方だった。
 自分のものより大きな手のひらを包む右手はそのままに、高尾の双眸をただ見上げる。
「あの……」
「……うん」
「山田くん」
「……へ?」
「山田くんの、話」
 扇風機で扇がれたように、得体の知れない空気は吹き飛んでしまった。混ぜるように頭を掻いた高尾と優乃の周りに、夏の夜の生温かい風が戻ってくる。
「山田かあー……」
 深いため息を吐く。顔を上げた高尾の表情に、優乃は困惑する。今までにたくさん見てきた表情のどれとも違った。
「ずりィわ、ほんと」
 声は低く、少し掠れている。利子として受け取っていた手のひらが、麦茶ごとするりと離れた。
「そうやって利子つけんのとか」
 声は徐々に、いつもの親しみやすい明るさを取り戻していった。
「ココだけにしといてくれよー? 天才商人さん」
 ぽん、と麦茶が手の上に返ってくる。んじゃー明日な! ひらひらと手を振って去る高尾へ、手を振り返す。
 優乃はしばらく、左手の麦茶と右手とを見つめて、ゆっくりとソファーから立ち上がった。


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愛しくなる衝動