33:きみと共に生きていくということ



 夕日に夜の藍色が僅かに混ざり始めた頃、民宿の前にバスが到着した。学校から持ってきたスクイズボトルやストップウォッチの入ったバッグを、優乃はバスのトランクへ乗せる。
「座席は決まってないから、乗った奴から奥へ詰めろ」
 大坪のよく通る声が民宿の駐車スペースへ響く。その向こうの民宿には、夕日に混ざってまだ灯りがいくつも見える。誠凛は明日の朝にこの合宿を終えるらしい。
 誠凛の成長の加速度は、驚異的だった。あらゆる経験をまるでブラックホールのように次々と、新しい糧として吸収していく。土台がどしりと重たく堅牢な分、秀徳には真似し得ない個性であり長所だ。
「望むところなのだよ」
 強くなっていく誠凛に、緑間が小さく笑っていたのを思い出す。
(望むところ、か)
 優乃は民宿の玄関口で一人、静かに微笑んだ。
「何をニヤニヤしているのだよ」
「緑間くん」
「荷物はあらかた積んだのだろう。後はお前一人では持てんものばかりなのだよ」
「うん、そうだね……?」
 目の前で立ち止まったままの緑間を見上げる優乃と、優乃をじっと見ている緑間の間に、しばしクエスチョンマークの飛び交う沈黙が続いた。
「……ああ!」
「何なのだよ一体」
「緑間くん。私はバス、乗らないの」
「は?」
 眼鏡の向こうの瞳が初耳だと告げていた。優乃は続ける。
「私は、ここに残るんだよ」
「お前……」
 突如として、穏やかな夕暮れの空気は霧散した。緑間の中性的にも見える顔立ちが、みるみる険しく歪んでいく。優乃は訳もわからずに、鹿のように静かだった眼差しが、凄みさえ感じるほど冷たくなっていくのを見ていた。
「いつからだ」
 帝光の二軍に居た優乃相手のときよりも平らで、冷たい金属板のような声だった。優乃の眉尻が自然と下がった。
「え……? どうしたの? 何が、いつから?」
「もうとぼけるような段階ではないのだろう」
 緑間は優乃の言葉をはたき落とした。急に緑間と目線が合わなくなる。彼の長身が怖いと感じたのは秀徳に入って初めてだった。
「とぼけ……? え、み、緑間くん」
 優乃がおろおろと言葉を紡ぐ度、眉間の皺は深くなる。緑間はついに吐き捨てるように言った。
「誠凛への引き抜きだろうが」
 残ったのは、遠くに聞こえる波の音だった。蝉の鳴き声すら止んでいた。瞬き三回分の時間をかけて、優乃は緑間が考えていたことに、緑間は優乃の様子がどうにも奇妙であることに、気がついた。
「緑間くん、ちょっと屈んで」
「え」
 困惑した様子から一転して静かに放たれた優乃の言葉には、抗い難い響きがあった。今度は緑間が状況を飲み込み切れぬまま、おずおずと背を屈めた。優乃の片手が持ち上がった。
 緑間の額にぴしっと痛みが走った。驚いてのけぞる。優乃はでこぴんの手を作ったまま、緑間を真っ直ぐ見上げた。
「私は秀徳です」
 蝉が鳴いている。
 緑間はぱっと顔を背けた。思わず眼鏡に手が伸びる。首から上が燃えるように熱い。
「私は、ここから二軍と合流して、インターハイ一日目の偵察に行きます」
「聞かなかったことにするのだよ」
 恐ろしく早口で低く呟いた緑間は、微かに空気の微笑む音を聞いた。むっと顔を上げて、用意していたはずの言葉を失う。
「それは無理だ。ごめんなさい」
 優乃は少し目を細めて、緑間を眩しそうに見上げていた。ずっと同じ夕日の中に立っていたはずが、今初めてそれを意識する。
 エンジンの音が鳴り出したバスの入り口から、声がかかった。
「おい緑間ー、学校まで走って帰る気かー?」
「今行きます」
 イライラとバスの方へ踵を返しかけて、半分で止まる。もう一度見た優乃は、その睫毛を瞬いた。口元は相変わらず緩んだままだ。
「……いいから忘れるのだよ」
「だめです。忘れられません」
「頑固者め……!」
「早く乗らないと!」
 小さな手が緑間の背中を軽く押した。手強いブロックとは比べ物にならない力のはずが、足は自然と進みだす。
「お疲れ様でした! また学校で!」
 緑間は振り返った。手を振られる。眩いくらいの夕日の中で、花のかんばせが向日葵のように笑っている。
 バスの窓から、一陣の風が吹いた。感謝や労いの声たちだ。
 脳裏を、合宿中の光景がよぎっていく。
 誰より早く、その姿は体育館にあった。夜、自主練習から戻るとき、必ず窓から明かりが零れていた。死んだ方がましなほどきつく感じる練習と熱気とに耐えかねて嘔吐する部員の背をさすってタオルを差し出し、脱水にならないように経口補水液で介抱をしたのも彼女だ。彼女が切り分けたスイカを食べながら、家のベッドでごろごろしたいとぼやく二年生にもうひと踏ん張りです、と微笑む彼女は、一度も疲れなど見せなかった。
 言葉は、自然と零れていた。
「よかった」
 たくさんの言葉の花束にそっと一輪さしこんで、緑間はバスの階段へ足をかけた。


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愛しくなる衝動