都会の夜には、昼間の灼熱の気怠さが残っている。
人とぶつからぬように気をつけながら、地図とにらめっこして、優乃はようやく目的のホテルへ辿り着く。
インターハイ決勝リーグの開始は明日だ。優乃は一夜宿泊して、二軍の偵察班を待つ手筈だった。
自動ドアをくぐる。冷房の風がその場でどろどろに溶けていきそうだ。目を擦る。フロントの女性は、優乃を見て真っ赤な口紅で柔らかく微笑んだ。業務を一通りこなしているはずなのに、髪に乱れ一つ見当たらなかった。
「お名前をうかがってもよろしいですか?」
「はい、水谷優乃です」
チェックインの業務がつつがなく行われていく。部屋に着いたら、心配性の部員たちに報告のメッセージを入れなければ。誠凛戦で優乃が行方をくらませたことを、全員しっかりと覚えている。
「あれ!?」
まさにカードキーを受け取った瞬間だった。優乃は驚いて振り返った。一度聞いた声は忘れない。知っている声だった。
「やっぱり!」
振り返った先で男が目を丸くしている。その顔にも、彼が着ているブレザーにも、優乃は見覚えがあった。
「海常の……森山さん?」
「秀徳のマネージャーだよね! えっマジか!」
チェックインしにきた客が何事かと森山の方を見る。森山は視線をまるで気にせずに優乃へビシィッと人差し指を突き付けた。
「きみ! ちょっとここで待機!」
「えっあの」
優乃が何か口を挟む間もなかった。踵を返して凄まじい速さで走り去った森山を、優乃は一人ぽつんと見送る。
待機と言われたからには、優乃に立ち去る選択肢はなかった。他の利用者の邪魔にならぬよう、フロントから少し離れてソファーの傍らへ移動する。いつの間にか、ローファーに土が跳ねていた。ポケットティッシュを取り出して、屈みかける。
「ちょっと森山先輩! 何なんスか急に!」
「お前の女神がいるんだよ!」
「ちょ、オレ今カワイイ子とのおしゃべりとか心底いらないんスけど!」
「お前! その言葉、この光景を見てからでも言えるかな!」
ホテルの階段を騒々しく声が降りてくる。
顔を上げた優乃は、ホテルの照明をきらりと弾く蜂蜜色の瞳を見つけた。
「……へ」
呆然と立ち尽くす黄瀬の隣で、森山はふんぞり返っている。顔に「ほら見ろ」と太字のマジックで書いてある。
「黄瀬くん」
「優乃っち……?!」
何でここにー?! ロビーに響き渡った声に、全員が一斉に彼の方を見た。
「へえ、誠凛と」
「そうなの。ほんとにびっくりした。包丁が……」
「包丁?」
ロビーは人の足音が行き交うだけの静けさを取り戻していた。お日様の気配すら残さない夜の帳がホテルの入り口から先を支配している。チェックインは多い時間帯のようで、フロントマンが一人増えていた。
横長のソファーで、優乃と黄瀬は話し込んでいた。明日試合なのにいいの? と問うた優乃へは、今は姿をくらませている森山が代わりに回答した。問題なし。呼びに来るからそれまで話してて、と。
優乃の話に相槌を打つ黄瀬の声は、綿雪のように優しい。周囲に配慮して静かに話をしているからだろうか。黄瀬の声質も相俟って、甘やかで優乃には少しくすぐったい。
「てか誠凛と縁ありすぎじゃないっスか? 結構凄いよね、そこで合宿被るの」
「そうだよね。みんなとも話してた。緑間くん、縁は縁でも因縁なのだよとか言ってね……」
「あー言いそう」とふっと黄瀬が笑う。
「黄瀬くんともよく試合のときに会うよね。ほとんど毎回?」
「そういえばそうっスね! 今日もすげーびっくりした」
「私も。考えてみたら、凄い偶然だね」
にこっと笑って、優乃はローファーのつま先を見つめる。高校生になってから初めて黄瀬に会ったとき、ローファーはぴかぴかでまだ足に馴染んでもいなかったことを思い出す。
黄瀬の様相も、春先から随分と変わっていた。もともと恵まれている体躯にさらに磨きがかかったことは、制服の上からでも見て取れた。部活中の練習だけの成果でないことは、秀徳の選手を見てきたからすぐにわかった。
黄瀬とは違う高校だ。ライバル校ともいえる立場だが、優乃は不思議と嬉しかった。
落ち着いたオレンジ色の照明の下で、黄瀬がふと姿勢を正した。
「オレ、ずっと優乃っちはどこの高校行くんだろって思ってた」
「私?」
「うん。中学のときに」
黄瀬は黄瀬で、少しの沈黙の間に思い起こしていたことがあったようだ。蜂蜜色が濡れたように鮮やかな瞳の、横顔を見つめる。
黄瀬はその、筋張った大きな手を膝の上で組んだ。
「全中の後、二軍は引退ってなって、優乃っちも部活からいなくなって」
伏せられた長い睫毛が目元に影を落とす。
「どこの学校行くのかなーって。……同じとこだったらいいな、って」
驚いて目を瞬く優乃をちらりと見て、黄瀬は少し照れくさそうに笑った。視線はすぐに手元へと戻る。
「その気持ちは、実は今も変わってないんスけど……でも」
横顔から、ほのかに残っていた笑みの気配が消えた。再び向けられた瞳は真っ直ぐに優乃を射抜くようだった。
「でも、なんていうか。明日の試合は、見ててほしい。客席から見ててほしいんス」
優乃の脳裏へ、一瞬にして体育館に響いていた客席の歓声が押し寄せた。強く煌めく金色の瞳をただ見つめ返す。
「見てて。オレのこと」
青峰のスタイルを完全にコピーしきった黄瀬と青峰は、サバンナの百獣の王さながらの気迫で互いにゴールを奪い続けた。青峰がゴール板を揺らす乱暴なシュートを見せた後には、黄瀬が全く同じようにバックボードを震わせる。青峰がディフェンスを次々と三人なぎ倒すように抜き去った後は、黄瀬がまるでプレイバックムービーを見せるかのように桐皇の選手を三人蹴散らしてゴールを決めた。
会場の熱気は天井を知らずに増し続け、異様とも表現できる光景を前にプレスのカメラマンたちは夢中でシャッターを切った。
「す、すげええ! どうなってんだ!」
「ずっと続くんじゃないのか、これ……!」
すぐ隣の観客たちは興奮を抑えられずに早口で盛り上がっている。優乃はきつく組み合わせた両手を己の口に押し当てていた。他に、黙っていられる手段が無かったのだ。
帝光の三年間、部活中にありとあらゆる不調を訴える部員をテーピングしたり、マッサージしたりしてきた。オフの日には講習を受けたり、図書館で本を漁ったりもした。秀徳にいる現在もそれは変わらない。
優乃には聞こえていた。黄瀬の全身が軋んでいる。左の足首が絶叫している。青峰から感じる音の何倍もの大きさだった。ガラスのコップはいつ砕けるかもわからない。しかし、それから恐ろしさのあまり目を逸らすことを、彼女自身が許さなかった。
ついに糸がぱつんと切れるその瞬間まで、優乃は自分の鼓動が耳元でガンガン鳴るのを聞きながら、試合を見つめ続けた。
「あ……」
「どうしたんですか?」
桃井は長い睫毛を少し伏せた。ゆるく頭を振る。
「ちょっと……友達がいて」
もう一度客席を見上げる。かつて似合いそうだと言った制服の後ろ姿は、色とりどりのユニフォームやコートに紛れて見えなくなってしまった。
(言った通りだったね)
「制服、すごく似合ってる」
呟かれた言葉は、コート脇に小さく取り残された。
愛しくなる衝動