36:わたしたちの帰る場所



「久しぶりだねー」
 紫原はにこっと笑った。片手には相変わらずお菓子の袋が握られている。大きな体にも少しぶかぶかのユニフォームには、彼の所属校がアルファベットで刻まれている。
 筒状のお菓子を持っていない方の手で、紫原は優乃の頭に手を置いた。撫でる手つきはまるで子犬相手のようだった。
「……久しぶり」
 優乃はラズベリー色の瞳に微笑んだ。猫の目がふっと柔らかくなる。
「セーラー服なんだー」
「うん。紫原くんのところは?」
「ウチはブレザー。でも灰色だからつまんないー」
 紫原は口を尖らせた。優乃は思わず笑った。
「好きとか嫌いじゃなくて、つまんない?」
「そうだよー。つまんないじゃん」
「何色なら良かったの?」
「優乃ちんが着てるみたいな、白とかがある二色のやつとか? んー、もっといろんな色があったらいいよねー。お菓子みたいなー」
「結局お菓子なんだ」
「そうだよ? お菓子大好きだもん」
 紫原は無邪気な子供のようにぺろりと唇を舐めた。
 話をしている二人の脇を、人々はわかりやすく紫原へ目線を向けては歩き去っていく。中には<キセキの世代>紫原と話をしている相手は誰かと、優乃の顔や制服を見ていく者もいた。
 優乃にとって、紫原とかつてと同じように話をしているのは少し不思議なことだった。紫原を見つめると、彼はきょとんと目を瞬く。マイペースで自分の世界を持っている紫原らしく、「あ、お菓子欲しいの?」と首を傾げるので、優乃は笑ってしまった。
「優乃ちんー、さっきから笑いすぎじゃない? 前も思ってたけどオレなんもしてないよー」
「ごめんね」
「……別にいいけどお」
 通路の向こう側から、紫原を呼ぶ声がした。紫原は舌打ちでもしそうな凶悪な顔になったが、返事はちゃんとしていた。
「じゃーね、優乃ちん」
「うん、またね」
「……あのさー」
 踵を返した後、紫原は顔だけ振り返った。片方だけ見えるラズベリーの目は、その奥を覗かせない鏡のような表情だった。
「ここにいるってことは、続けてるんだよねー? バスケ」
 紫原の言葉を引き金に、脳裏を映像が駆け巡る。体育館にいながら、外の雨に打たれているように立ち尽くす背中も、双眸を伏せて唇を噛む姿も、じわりと血が滲む拳も、優乃の中を鮮やかに巡っていく。
「うん」
「ふーん。そっか」
 紫原はそれだけ呟くように言った。人波を割るように去る大きな背中を、優乃はしばらく見つめていた。

 バスの中で、可愛らしいリンローンという音が高らかに鳴り響いた。もともと注目を集めていた群青のジャージ集団へ、さらに視線が集まる。笠松の頭から鬼の角が生えた。
「おい! ケータイちゃんと音切っとけ、迷惑だろうが!」
「スマセン!」
「黄瀬お前か!」
 黄瀬は大慌てでスマートフォンを取り出した。笠松の怒鳴り声は、小声でも迫力満点だ。
(器用なんスから、もー……)
 側面のミュートスイッチをカチッと切り替えて、ついでにホーム画面をタップする。
「あっ」
 ロック画面に表示された名前を見て、黄瀬の心臓が熱を持って大きく跳ねた。画面のいくつかのポイントをRを描くようになぞって、メッセージアプリをタップする。バスケットボールにマジックでにこっと笑う顔が描かれたアイコンは、はじめ見たときあまりに可愛くて笑ってしまった。タップする。
 一瞬時が止まったようだった。黄瀬は息を呑んだ。
 突如ぎゅっとスマートフォンを握って、胸へ抱き込んだ黄瀬に小堀はぎょっとなった。
「おい、大丈夫か? まさか足以外にもどっか痛むんじゃ……」
「……オレ、欲しいんス。どうしても」
 絞り出すように言う黄瀬の様子を見て、小堀はさらに慌てる。
「えっ! 何、痛み止めをか?!」
「どこも痛くないっスよ。ただ、欲しいって思うから」
 自分は元来、欲張りな性格だと黄瀬は自負している。
 あれもやってみたい、これもやってみたい。そう思って追いかける貪欲さが、彼の持つ才能の根っこである原石なのだ。
 自分が欲張りであることに、これほど感謝した日はない。
(どっちも、本気で欲しい)
 このチームで上る頂きからの景色も、それから。
 蜂蜜色の瞳を、ゆっくりと閉じる。雨に濡れて、それでも温かい手のひらの感触を思い出す。


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愛しくなる衝動