「神奈川ぁ?!」
学生鞄を持って立ち去ろうとしていたクラスメイトの何人かが、美智子を振り返った。
美智子は国語の教科書を鞄へ仕舞う優乃へ、机越しに詰め寄る。跳ね上がったアイラインで目力が強調される。
「神奈川って神奈川県のこと?!」
「そうだよ」
「ウソでしょ……信っじられない……」
優乃は眉尻を下げて笑った。明日は久しぶりにオフの日だ。休日で学校もない。美智子は遊びに誘ってくれたが、彼女には予定があった。神奈川までテーピングの講習を受けにいくのだ。
「バスケに人生捧げるのお?」
美智子は唇を尖らせて、優乃の頬を人差し指でつつく。綺麗に上を向いた睫毛の奥に見える瞳は柔らかい。
「オフの日にやれることやりたくて、中学二年生の頃から……」
「は? 中二?!」
講習はとある大学のキャンパスにあるホール内で行われた。
午前中早くから始まった講習が終わって優乃が外に出ると、既に太陽は南の空高くへ昇っていた。
(お腹空いたな)
キャンパスの外をぐるりと囲むように植えられた木々が風にざわめくのを聞きながら、スマートフォンを取り出す。近くのファミリーレストランを検索すると、ほんの五分ほど歩いたところに一件見つかった。
階段を下り切って、整備された歩道を歩く。コンクリートではない柔らかい素材が使われていた。
丁度、ランニングする足に優しそうだと考えていたところで、背後から足音が迫ってきた。端に避ける。何となしに走ってきた人物へ目を遣った優乃と、彼女を振り返った蜂蜜の瞳とが、音が鳴ったかと彼らが錯覚するほどにぴたりと合った。
「えっちょ!」
優乃は慌てて走り出した。止まるにも止められないという様子で、黄瀬のランニングペースが崩れたからだ。体力が違う上に優乃は私服なので、並走できる時間は短いだろうが、少し話はできる。
「久しぶり!」
「久しぶり! じゃなくてえっ、どうして!」
「黄瀬くんまだ途中だよね、よかったら終わるまで待ってていい?」
「もちろん!! てかいいんスか?!」
「うん! 頑張る黄瀬くんの邪魔したくない。さっきの階段のところに居てもいい?」
「オッケーっス!」
優乃は手を振って速度を落とした。優乃の意図を汲んで、黄瀬は振り返らずにぐんぐん遠ざかっていった。
「テーピングの講習……! わざわざ神奈川まで?!」
「うん」
「ちょっと優乃っちスゴすぎっスよ」
優乃は首を傾げた。ストローから唇を離す。
「黄瀬くんがオフの日に走ったり、筋トレしたり、それと一緒のことだよ。だから私が凄いって言うなら、黄瀬くんも」
にこにこ笑う優乃は、走ったばかりの心臓に悪かった。う、と目を逸らして水を飲む。
「すごくよく見て、考えてるんだね」今より少しあどけない声で言ってふわっと笑った彼女を思い出した。あれから、彼女が誰にもその瞳を汚されずにどんどん綺麗になっていくのを、ずっと見ていた。誰より近くでずっと見ていたかった。
(二軍だけ引退が早いなんてことが無ければ、もっと話せてたかな……そしたら、海常に)
そう思う一方で、違うことも考える。
「どうっスか、最近秀徳は」
ふ、と優乃の瞳が柔らかくとろける。その眼差しが何より饒舌だった。
前までは「ずるい」が溢れんばかりに脳内を埋め尽くしていたけれど、今は少し違う気持ちも浮かぶのだ。
ピンポーン、とスタッフを呼ぶ少し間抜けな電子音が店内に響く。食器がぶつかる音や人々の話し声に囲まれながら優乃と向かい合っているのが、今はとにかく幸せだった。
「海常は?」
「ふふん。ウチも絶好調! っスよ!」
胸を張って答える黄瀬を見て、優乃が心底嬉しそうに頬を綻ばせた。先程から黄瀬の心臓は熱くなりっぱなしだ。
「お互い冬が楽しみっスね!」
「そうだね。本当に楽しみ」
そういった後、優乃はねえ黄瀬くん、と続けた。
「ん? 何?」
「……黄瀬くんは、チームメイトってどんな存在だと思う?」
ふっと黄瀬の脳裏に蘇ったのは、嵐のような雨が止んだ後、街灯の点滅する公園だった。「どうしたらチームメイトになれた?」そう黄瀬に問いかけたときと全然違う表情の瞳に、少し嬉しくなる。大好きな人が悲しいのは、悲しい。
「チームメイトかあ……」
その問いそのものは、前より難しかった。黄瀬は海常の面々を一人一人、頭の中で並べてみる。
「うーん……」
難問だ。だからこそ、思ったことをそのまま言うことにした。難しい技を再現するときと同じだ。一回単純に考えてみるのだ。
「んー、そうっスね」
「うん」
「……この人たちとバスケしてたいなって思う人、スかね……?」
黄瀬は頭の中でぽこぽこ浮かんでくる言葉をたぐり寄せる。
「なんていうか……こう……ただその人たちとしたいなって思うというか。そのために頑張れるっていうか……」
たぐり寄せてはみたが、限界だった。優乃を見て、笑う。きっと自分は困った顔をしているだろう。
「ほんと、言われてみると言葉にするのってスゲー難しいんスね、チームメイトって」
優乃は、黄瀬が紡いでくれた言葉のひとつひとつを、大切に心の中で追いかけては拾った。
「……ありがとう」
蜘蛛の紡いだ糸のように繊細で、とても大切なことを、黄瀬は大事に話してくれた。何にも代え難い贈り物だった。
「ありがとう、黄瀬くん……」
優乃が込めた気持ちは伝わったようだった。とても優しい表情で黄瀬は頷いた。
「私はまだ、うまく見つけられないんだ」
そう言うと、黄瀬は悪戯っぽく笑ってウインクした。
「コツはよく見て考えること、あとは素直なこと! っスよ!」
「どれも黄瀬くんの得意分野だね」
優乃は続けた。
「黄瀬くん、私が見つけられたら、そのときは聞いてくれる?」
何故か少し面食らった顔をしていた黄瀬は、返事の代わりに小指を優乃の前に差し出した。
「もちろん。いくらでも聞かせてよ」
愛しくなる衝動