桃色の睫毛を綺麗に伏せて、桃井はベッドに横になる優乃を見つめる。
桃井の知る限り、初めてのことだった。放課後、体育館のすぐ前で貧血を起こして優乃が保健室へ連れられて行ったと知って、桃井は居ても立ってもいられなかった。
「大丈夫? 優乃……」
優乃は、桃井が入室する前からずっと、心ここにあらずだったようだ。落ち込んでるみたい、と肩を貸して運んだらしい黄瀬が、入れ違うとき眉尻を下げたのを思い出す。
「……うん」
優乃は天井を見つめていた。桃井の胸へ恐怖がにじり寄る。
桃井は現場を見ていない。もしかして倒れてしまったのだろうか。どこか悪いところをぶつけてしまったのだろうか。目頭が熱くなる。
「さつき」
桃井は我に返った。優乃は桃井を見ていた。顔は雪のように真っ白で、真冬に海に入ったかのように唇から色が失せていた。
その澄んだ黒い瞳は、濡れていた。
「え、ちょっと、優乃? 大丈夫?!」
「さつき、私、バスケが好き」
優乃の目尻から、溢れた涙が零れて白い枕へと伝っていく。
まるで、遺言みたいだ。
不意に頭をよぎった考えは、桃井を打ちのめした。そんなはずはない。これ以上、神様に大切な存在を奪われてなるものか。青峰、紫原、赤司、緑間、黄瀬、そして黒子の姿が次々まぶたの裏に浮かぶ。
「大好きなの」
「優乃……」
「大好きなの。さつきのこと、バスケのこと」
ふ、と涙声が色を失った唇から零れる。しかしそれは一瞬だった。
優乃は「ごめんね」と力なく笑った。
「来てくれてありがとう。でも、さつきは練習、戻ってほしい。それが部活のためだから」
「でも……! 今の優乃、すごく心配だよ!」
「大丈夫。もともと最近、ちょっと貧血気味だったの」
黄瀬くんにもお礼、伝えておいてくれる? そう言われてしまっては、桃井には何もできなかった。
引き戸に手を掛けて、ちらりと振り返る。
優乃は桃井を見ていた。眩しそうに見送っていた。
「優乃、絶対無理しないでよ!?」
「うん。ほんとに、ほんとにありがとう」
戸を閉める。優乃の姿は見えなくなった。
貧血はその日だけだと思った。でも次の日も、その次の日も、バスケットボールの音を聞いて、体育館を見て、血の気が引いた。怖かった。このまま大好きなバスケを聞くことも見ることもできなくなるんじゃないかと思うと、
「息の仕方もよくわからなくなった」
掛ける言葉など無かった。発する言葉も無かった。三人共、優乃がどれほどバスケを愛しているか知っている。
優乃の表情は、俯いていてわからない。帝光中学バスケ部が音を立てて崩壊していくのを間近で見ながら、それぞれの思いを抱えていたとき、優乃もまたまるで爆弾のように思いを抱えていた。爆発させることも抱え続けることもできず、優乃は導火線から火を遠ざけたのだ。
少しして、優乃は顔を上げた。沈痛な面持ちの桃井、憤りの表情を浮かべる黄瀬、そして静かな表情で目を伏せている緑間を見て、目を瞬く。
「ま、待って、三人共。私が一番伝えたいのはこの先なの」
帝光を卒業した段階では、この先に続きなど無かった。
今はあるのだ。
「あの頃言われてたことは全部事実だけど、全部が正しいわけじゃないって最近わかってきたの。ほんとに最近なんだけど」
優乃は黄瀬を見上げた。傘を打つ雨の音と、大きな手のひらの感触が蘇る。
「黄瀬くんがきっかけをくれた」
「へ」
目を丸くした黄瀬に、にっこり笑う。
緑間と目が合う。深いモスグリーンの瞳は、ただ優乃を見つめ返す。
合わせる拳の硬さも、一緒に食べたスイカの味も、タオルを受け取る大きな手のひらも、彼らとの思い出は既に、あまりにも失い難い。
「緑間くんや高尾くんのいる秀徳だから、思い出せた」
花のかんばせがふわっと綻んだ。桜が一斉に開花したような溢れる光に、三人はただ圧倒された。
「私はやっぱりバスケが大好きで、マネージャーっていう居場所が大好きなんだって、思い出させてくれてありがとう」
ジャージ姿で、リアカーの前にへたり込んで笑う。ドレスに身を包んでも花畑に佇んでもいない彼女がこの瞬間、世界で最も美しいと、彼らは迷いなくそう言えた。
優乃は、桃井を真っ直ぐに見た。
「それでね、一番大事なこと、やっと思い出して……、私が知ってる中で一番バスケが大好きな女の子に会いたくなった。でも、どんな顔して会えばいいかわからなくて……やっぱり逃げてた」
でも、と続ける。
「もう逃げない。さつき、また……また、仲良くしてくれる?」
「……それはできないよ」
桃井の視界がぐにゃりと歪んだ。
「だってもう、違う学校でライバル同士だもん。それに、それに……」
オレンジ色のジャージがよく似合う、目の前の唯一無二の存在に抱きつく。
「親友と“また”仲良くなんて、どうやってやるのかわかんないよ」
愛しくなる衝動