52:天からの号砲



「行ってきます」
 物心がつく頃から、挨拶を欠かしたことは無かった。玄関を閉める指をテーピングテープが覆うようになったときも、苛立つ心臓を諫めながら第一体育館へ向かうようになったときも、変わらなかった。
 冬の早朝の冷気は、針のように彼を刺した。手のコンディションを保つため、深い紺色の手袋をはめる。乾燥による少しの摩擦の違いも、まるで幾重もの羽根布団と敷布団の下に転がるえんどう豆のようによくわかるのだ。
 住宅街は寝静まっている。街灯が明るく見えるほど辺りは薄暗い。これから始発の地下鉄に乗って、静かな車内で小説を一編も読めば秀徳高校の最寄り駅の一つに着く。駅からは緑間の足ならば歩いて十分とかからなかった。
(……いや)
 近頃は、学校へ到着するのが少しだけ遅くなった。
 学校の前まで続く長い一本道の手前に、今日も華奢な人影を見つける。彼女は少し前からセーラー服の上に厚手のカーディガンを着ている。既にコートを着ている者も多い。寒くないのかと問うたところ、不意に手のひらを差し出されて驚いたことがある。「もともと体温が高いの」と笑う彼女の手は、確かに湯たんぽのように温かかった。
 優乃は今日も緑間を見つけて、素直な子犬のように駆け寄ってきた。
「おはよう」
 屈託のない微笑みが緑間を見上げる。優乃は緑間の隣へ収まった。ようやく、朝の空気の形が整ったと感じる自分は、不快ではなかった。
「またちょっと寒くなったね」
「コートを着ないのか」
「来週から着ようかなと思ってる。急に寒くなるんだって」
 優乃はふっと白い息を吐いた。今はまだ息が白くなるのは早朝くらいだが、本番は身を切る寒さだろう。バスケは室内で行われるため、外気を直に感じる時間は少ない。それ故に試合を終えて会場を出た瞬間の厳しい日差しや、木枯らしは、痛烈に記憶に残る。
 緑間はこれまでに出場した、全ての試合の日の天候を覚えている。初めてその鮮烈さを味わった好天も、黒子が初めて六人目として加入した日の小鳥が歌う陽気も、まるで自分たち以外の全てが止まってしまったかのような全中決勝戦の淀んだ酷暑も、灰色の突き刺さるような雨も、銀糸のように煌めく雨も、すべからく平等に、鮮やかに記憶している。
 緑間の、バスケへ抱く思いは中学時代も合わせて、ずっと変わったことがない。バスケは彼にとって極めたいもの、極めるべきものだ。果てなく続く自問自答の道を自分の足で歩み続ける。一人分の幅の道は、誰にも侵すことはできない。深海のように底の無い黒の中、白銀に伸び続ける道を一人で行く。変わることも変えることもない、彼の真理だ。
 並走する道に気がついたのは、いつだったか。
「優乃」
 隣を歩む優乃を見る。澄んだ黒の瞳は、緑間の踏み出そうとしている一歩を鋭敏にとらえて、どこまでも真剣だった。
「試したいプレーがある。まずは自主練でだ」
 並走する道を見つけた。そこを行く者たちの顔が見えた。誰もが己と同じように、歯を食いしばって、静かに道の先を見据えて、一歩、また一歩と踏み出していた。その姿に嘘偽りは無かった。
「手伝ってほしい」
 モスグリーンの双眸は、チームメイトが力強く頷くのをしっかりと見届けた。

 
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愛しくなる衝動