脈々と紡がれてきた伝統は伊達ではなく、秀徳の授業は質が高い。
ようやく鳴ったチャイムに解放感を覚えながら、優乃は肩甲骨をくっつけるように腕を伸ばした。
「優乃〜、疲れたあー」
優乃の隣に座っている美智子は、だらっと上半身を机に倒した。明るい金髪が机の端からするりと零れる。アイラインに綺麗に縁取られ、目尻の吊り上がった大きな瞳がだるそうな色を浮かべて優乃を見た。
優乃は猫のように伸びきった美智子に頷きながら、机の上で教科書とノートをとんとんと揃えた。
「数学二時間続けては大変だよね」
「ホンットありえないー」
美智子は体中の空気をため息として吐き出しながら、腕の間に突っ伏した。眠いー帰りたい―テレビ見たいーと子供のように駄々をこねる彼女に、優乃は思わず笑う。
「あっ優乃笑ったあ! 笑わないでよもー」
美智子は頬を膨らませた。優乃は謝ったが、その子供っぽい表情はとても微笑ましい。
「もう! 優乃ー」
「ごめん、なんか可愛くって」
「誤魔化されないから」
美智子はつん、とそっぽを向いた。
彼女は、中学時代に同じ部活だった彼を彷彿とさせる。
美智子は少しの間そうしていたが、何か思い立ってごぞごぞと学生鞄の中を探り出した。
優乃は指先を伸ばした後、机の上の数学の用意をしまおうと手をかけた。
「水谷ー」
不意に名前を呼ばれて、優乃はその状態のまま顔を上げた。彼女を呼んだのは、教室の入り口に一番近い席の山田だった。男子バスケ部の二軍に所属している。
「何?」
「数学TA持ってるか?」
「持ってるっていうか……さっき数学だったよね」
「あーいや、おれ無いからさ」
「山田くん……」
優乃は顔をひきつらせた。
山田は、入り口の方へ何やら一、二言言ってから再び優乃を見た。
「つーわけで、数学TA一式こいつに貸してやってくれ」
山田が指さした入り口からひょこっと顔を覗かせたのは、高尾だった。
「高尾くん」
高尾は優乃にひらっと手を振った。お邪魔しまーすとおざなりに言って、彼は教室内を優乃目がけて突っ切った。
「いやー、水谷が持っててほんと助かったわ……」
高尾は少々げっそりしていた。忘れてしまった今日に限って、時間割りが他のクラスとさっぱり合わなかったらしい。
「さんきゅー」
「いえいえ」
優乃は揃えてあった数学の用意一式を高尾に手渡す。受け取って、高尾はニヤッと笑った。
「返ってきたとき、教科書の図とかちょこっと変わってるかもな」
「えっ」
「冗談だって」
「そんな楽しそうに言われても信じられないよ……」
今度は優乃がげっそりした。
隣から伸びてきた手が優乃の肩を鷲掴んだのはそのときだった。優乃が驚く間もなく、彼女の視界から一気に高尾が消えて、代わりに目を輝かせた美智子が現れる。しかし彼女の姿も、目を白黒させる優乃の目の前からあっという間に消え失せた。最後に視界一杯に広がったのは、雑誌の一ページだ。
「見て見て!! ヤバイ!!」
優乃と高尾は揃ってびくっと肩を揺らした。
突然黄色い声を上げた美智子は、彼女たちの反応に全く構わなかった。頬を紅潮させて彼女は続ける。
「黄瀬くん載ってる!! めっちゃカッコイイ!!」
美智子の異常なテンションに、高尾が顔をひきつらせた。優乃は苦笑した後に、美智子が口にしたその名前が耳に馴染みのあるものだと気がついた。
つきつけられている雑誌から少し体を遠ざける。
今のトレンド! と大きく踊る文字までお洒落だった。その下で、お洒落な服を着て、スタイル抜群の金髪の少年が不敵に微笑んでいた。
(ほんとに黄瀬くんだ。……もう何年も会ってないみたいに感じる)
「懐かしいな」
睫毛の長い蜂蜜色の瞳と目が合う。優乃が思わず呟いた言葉に高尾は目を瞬いた。
「え、水谷知り合い?」
優乃は頷いた。
「同じ中学で同じ部活だったよ。私は二軍担当のマネージャーだったけど、一応」
高尾の目が点になった。
「え、同中?」
「うん」
「帝光?!」
「そうだよ」
おずおずと頷く優乃に、高尾はあんぐりと口を開けた。
ホイッスルが鳴った。
部員たちは熱い息を吐き出した。額の汗を拭う。休憩の合図だ。
「お疲れ様です! これから十分後に再開です!」
いつも洗剤の香りがする大量のタオルを配りながら、優乃が声を張り上げた。先程あらかじめタオルを貰っていた高尾は、わらわらと部員が集まっていく方にちらりと目を向けた。優乃は笑顔で、一人一人にタオルを渡していた。
汗を拭いながら、高尾はゴールの方へと足を向けた。
彼は休憩時間も黙々とシューティングを行っていた。確かに今日のメニューはゴール練習少ないけど、と高尾の瞳はすうと細まる。
「しーんちゃーん」
ボールを構えていた緑間は構うことなくそれを放る。ボールがゴールネットの真上に来る前に、彼はくるりと踵を返した。
「だからその呼び方をやめろと言っているだろう」
彼の背後で、ボールは音もなくネットを通って落ちた。
「いーじゃん別に呼び方なんてさ」
高尾はタオルを首にかけて、けらけら笑った。
(マジで外さねーな)
数回床で弾んで転がった後、静かに止まったボールを目で追ってから、高尾は口を開いた。
「教えてくれてもよかったのに」
「何をだ」
「水谷が同中だってこと」
緑間はボールを拾い上げた。髪から滴る汗を袖で拭う彼は、表情を変えなかった。
「何故?」
「マネージャーと同中とかビッグニュースすぎんだろ。しかも帝光」
「言ったところで何もならないのだよ」
「何ソレ。……まあけど、知った後だと全部納得だな。水谷テーピングとか超上手いし。一日で部員全員の名前覚えてきたのも頷けるわ」
高尾は優乃へと目を向けた。
キャプテンの大坪と、一軍の三年生木村との三人で、何やら真面目な表情で話をしている。部活が開始してからまだ短い時間しか経っていないが、彼女がバスケに対して選手と同じように真摯なのは部員たちによく伝わっていた。
「中学でもあんな感じだった?」
緑間は、眼鏡の橋を押し上げた。
「知らないのだよ」
高尾は片眉を上げた。
「は?」
「彼女は二軍のマネージャーだった。たまにこちらへ手伝いに来ていたようだが、接点は殆ど無かったのだよ」
緑間は顔色一つ変えずにそう言った。
高尾はぱちくりと目を瞬かせた。続いて彼は、肩を竦めた。
「……帝光、ねえ」
愛しくなる衝動