07:あぶくが弾ける



「お疲れマネージャー」
「水谷お疲れ様ー」
 お疲れ様です、と帰宅していく部員たちに頭を下げて、優乃は手元に広げた道具に再び目を落とした。
 定期的に行っている備品の点検だ。人数が多いだけあって、消耗品が恐ろしい速さで減る。
(まだあるけど……今日買っておいた方がいいかな)
 優乃はうーん、と考え込んだ。部室の扉越しに、自主練中の部員のボールの音や靴底の擦れる音が聞こえる。体育館に熱気と活気とが充満しているのが音だけで伝わってくる。
 一つ頷き、優乃は備品をしまった。
 部室を出る。高い位置に設けられた窓から陽光が差し込んで、館内は夕日色に染まっていた。優乃はコートで自主練している大坪へ小走りで近寄った。
「大坪さん!」
 大坪はディフェンスの構えを解いた。その前で腰を低くしてボールをバウンドさせていた宮地も、一度緊張を緩める。
「すみません、練習中に」
「いーよ別に。用事だろ」
 宮地は1on1からドリブルへと練習を切り替えた。ありがとうございます、と頭を下げる。
「どうした?」大坪は優乃に問うた。
「備品でいくつか切れそうなものがあるので、今から買いに行きたいんです」
「わかった。よろしく頼む」
「先輩方はあとどのくらい体育館にいらっしゃいますか?」
「あー、そうだな……」
 大坪はちらっと時計を見た。
「あと二時間はまず間違いなくいるな」
 二時間あれば、余裕をもって帰って来られるだろう。優乃は口を開いたが、それより先に大坪が言った。
「買い出しに行ったら、水谷は今日はそのまま帰れ」
「えっ」
 優乃は思わず声を上げた。
 気づかない内に何か失敗してしまっただろうか。眉尻を下げる優乃に、大坪は違う違うと少し表情を和らげた。
「いつも最後の一人が上がるまでいるだろう。お前は選手ほど体力も無いだろうし、休養も必要だ」
 話を聞いていたらしい宮地がボールを突きながら続く。
「会計の奴も今日金庫の鍵忘れたって言ってたから、どうせ立て替えは明日だしな」
 二人は毎日優乃の帰りが遅いことを知っていて、気に掛けていたのだ。
 優乃は目を瞬いた。二人を見上げる。
 彼女は少し眉尻を下げたまま、笑った。
「……すみません。お言葉に甘えます」
 優乃はぺこりと礼をして踵を返した。着替えに向かった優乃の後ろで、大坪と宮地は顔を見合わせた。
「なんか……困ってたか?」
「迷惑、という感じではなかったけどな」

 新しかったローファーは、優乃の足に少し馴染んできた。
 髪と戯れて夕暮れの風が過ぎ去っていく。優乃は、ぼんやりと帰路を歩いていた。両手で買い物袋が音を立てる。先程から風に乗って、子供の声が届いていた。声だけで駆けまわっている様子がわかるくらいにはしゃいでいる。
 優乃はぼんやりしたまま、角を曲がって少し広い通りへと出た。車が脇の車道を通り過ぎていく。
 歩みを進める彼女の腕を、背後から不意に手のひらが掴んだ。
 優乃は我に返った。驚いて振り返る。そこにいた人物に、優乃はますます目を丸くした。
「もー優乃っち! さっきからずっと呼んでたんスよ!」
 眩い金髪が風にさらりと音を立てた。大きな手のひらが優乃の腕からぱっと離れる。
 睫毛の長い蜂蜜色の瞳が、優乃を映してにこりと笑った。
「久しぶり」
 彼の容姿をそのまま形にしたような爽やかな声は、最後に聞いたものと比べて少し低くなっていた。優乃はようやく、喉につかえていた声を送り出した。
「黄瀬くん」
 黄瀬は制服姿だった。バスケの強豪海常高校指定のブレザーだ。
 黄瀬にとっても、優乃の声を耳にするのは久しぶりだった。懐かしそうに目を細めた後、彼は長い睫毛を瞬いて優乃の持つ買い物袋を覗き込んだ。
「買い出しスか?」
「そうだよ」
 優乃は頷いた。ややあって、黄瀬はぽんと手を叩く。
「あっ、てことはやっぱり高校でもマネージャー続けてるんスね」
「うん」
「いいなー。ずっと聞きたかったんスけど、優乃っち今どこの学校?」
「秀徳だよ」
 優乃は微笑んだ。内心、自分へため息をつきたくなる。
 マネージャーのことに触れられて、動揺した。過去のものとなったはずの眩い地獄の光に、未だ囚われ続けているのだ。自分で自分が滑稽で仕方なかった。
「秀徳、って……え?! 秀徳?!」
 確かめるように呟いた後、黄瀬は素っ頓狂な声を上げた。優乃の通う学校名を聞いて衝撃を受けたようだ。優乃は小首を傾げた。
「うん。えっと、どうかした?」
「だって緑間っちそんなの一言も……!」
「あ、それなら黄瀬くんに言うとき知らなかったのかも。お互い入学してから一緒だってわかったの」
「えっ、そうなんスか?」
「うん」
 スカートの裾と、ブレザーの裾とが、夕方の風に小さく揺れる。少しの間、黄瀬も優乃も道の途中で並んだまま何も言わなかった。
「優乃っち、いま帰り?」
「そうだよ。黄瀬くんは?」
「オレも。ちょっと挨拶行くとこあって、その帰りなんスよ。えっと、優乃っち家この辺だっけ」
 優乃が遠慮するより先に黄瀬は続けた。
「オレが色々話したいんスよ! 中学じゃ最後の方、あんまり話す機会無かったし」
 何故黄瀬の瞳が寂しそうに笑うのか、優乃にはわからなかった。当然のことだった。同じ部活だったとき、黄瀬はスポットライトを浴びていて、優乃はその外の暗闇に佇んでいた。緑間と同じだ。部活の仲間と言い切れない距離があるのだ。
 だめ? と首を傾げた黄瀬に、ぼうっとしていた優乃は慌てて首を振った。黄瀬の瞳を見上げる。
「それじゃあ、お願いしてもいい?」
 黄瀬は何故か、一瞬言葉に詰まった。
「もちろん!」
 黄瀬はやや勢い込んで言う。その表情は明るかった。優乃は少しほっとした。
 恵まれた長身が隣に並ぶ。
「優乃っちの家って、確か川は越えるよね」
 優乃は話しかけようとして、黄瀬の横顔を見上げた。
「……黄瀬くん、背高いね」
「今さら?!」と黄瀬は笑った。彼もすぐにちょっと眉を上げた。
「けど確かに……優乃っちも、思ってたより小さいかも」
 隣に並ぶとやっぱ違うんスかねー、と彼は首を傾げる。
 優乃は頬を緩めたまま、少し目を伏せた。
(同じ部活だったときには、気づかなかったのにな)
 同じ部活に所属していた。しかし決して同じチームでは無かったのだ。見上げるほどの身長差は、無言のまま、優乃に告げていた。


前の話 次の話
愛しくなる衝動