05▼(ふ)しあわせになってね

伸ばした黒髪を、丁寧に櫛で梳かす。
長い髪は、ときどき鬱陶しいけれど、とても気に入っている。前に武が「綺麗な髪の人なー」と言った通りすがりの女性に、ちゃんと似てきたからだ。
可愛いでも綺麗でも、なんでもいい。武に自分を思ってもらえる機会が少しでもできるなら、わたしはどんなことでも惜しまない。
櫛を鏡の前に置いて、時計を見る。傍らの鞄を手に取った。
アトリエで絵を描くお母さんに声を掛けて、わたしは玄関の扉を開けた。
それから少しして、前の竹寿司の引き戸が開いた。
「いってきまーす」
その声に、どくりと心臓がうごめくのを感じた。暖簾を押し上げて出てきた姿に、無条件で熱が頬へ上っていく。
顔を上げて、その人はわたしを見た。
「お、美月」
笑いかけられて、名前を呼ばれて、幸せでどうにかなってしまいそうだ。
「……おはよう、武」
「よっ、今日は図書室行かなかったのか?」
「うん」
毎朝、朝練がある武と同じ時間に登校したいから、わたしは朝早くから空いている図書室に行く。
野球部のマネージャーになれば四六時中一緒に居られるかもしれないけれど、チームメイトやファンクラブに囲まれている武を毎日見続けていたら、わたしはいつか抑えを自分で外してしまうと思ったので、それはやめた。
「昨日の夜ばったりオヤジと会ったんだってな」
「うん。お父さま出前の途中だったみたいで、引き止めることになっちゃったんだけど」
「美月ちゃんまた美人になってたなあって笑ってたぜ」
そう言って、武はにかっとわたしに笑いかけた。
その笑顔と、彼が言ったわけではないけれど彼が紡いだ褒め言葉に、顔が熱を宿していく。胸が満たされて言葉に詰まる。思わず俯いて、自分の足先を見つめた。
「あり、がとうございます、って、伝えといて、ね」
「りょーかい」
返事と一緒に、頭の上に大きな手のひらを感じた。気絶しそうだ。
それからも他愛ない話をしながら、武と並んで、通りを歩く。少しだけ蒸し暑い。緩やかに吹く薫風が、夏の香りを運んでくる。わたしはそっと、武の横顔を見上げた。
今年も、武と過ごせたら、わたしはそれだけで十分だ。

並中まで伸びる主要な通学路の内の一本に、差し掛かったときだった。
横で、武が何か見つけた。前を見て、あ、と声を零す武に、心臓がひしゃげる。
「どうしたの?」
問うと、武はわたしを見てにかっと笑った。
きゅう、と胸の下辺りが締め付けられる。
「美月、同じクラスのツナって知ってるだろ?」
その瞬間、熱かった体の芯が、急激に冷え切った。
「うん、知ってる」
武を殺そうとした男の子でしょう。
武と同じように前を見た。
柔らかそうな茶髪が、青い風に揺れていた。背中が少し眠たげだ。
「この前少し話もしたよ」
口なんか、ききたくなかった。
でも得体の知れない人間のまま、武の近くに居られる方が嫌だった。
その言葉達は、喉の下へと引っ込める。
「ツナっておもしれーよなあ」
「……そうだね」
「挨拶行こーぜ!」
「……うん」

「ふぁ〜、ねむい」
欠伸を零す沢田くんは、ごく普通の男子中学生だ。
今は、まだ弱いみたい。
「よおツナ」
彼の隣に、武が並んだ。わたしはそれを、一歩後ろから見つめる。
「山本! おはよ!」
「美月もいるぜ」
「おはよう、沢田くん」
「宮内さん?! お、おはよう!」
「なんだ寝不足か? クマできてんぞ」
「え…あ…ちょっとね」
沢田くんは歯切れ悪くそう言って、視線を泳がせた。心なし、顔色も悪い。
それを、武はあまり気にしなかったみたいだ。他愛無い話を続けて笑う姿に、わたしも思わず笑みを浮かべる。
武が、ふざけて沢田くんを、どついたときだった。
わたしは後ろを振り返った。
通学路を、並中生が蟻のように歩いてくるのが、見える。
目線を少し、上げてみる。
「美月ー」
武の声に、わたしは前を向いた。
「どうかしたか?」
わたしは首を傾げる武を見て、隣の沢田くんを見た。
「……ちょっとね」
あの瞬間確かに、背後から悪意ある視線が、武に向けられた。


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