09▼にんげんに なりたい魔物

季節はとうとう、夏に移り変わった。蝉の声が少し五月蝿く、アスファルトがひどい熱を出す、学生にとっては一番楽しい、一年の内の一部分だ。
わたしは、お母さんのアトリエに居た。油絵の具や水彩絵の具や、その他様々な絵を描くためのものの香りが混ざった匂いが、わたしは大好きだ。それらは全て、お母さんの匂いそのものだった。
お母さんの綺麗な黒髪には、ところどころ絵の具が散っていた。わたしと同じ色のはずの髪が、それだけで鮮やかに煌めいて見える。
キャンパスに筆を走らせるお母さんの横顔は、とても美しい。長い睫毛の下の瞳が、真剣だけれどどこか霞がかったような視線を絵に向ける。
お母さんの絵を、わたしは理解することができない。お母さんは天才なのだ。お母さんの絵は、お母さんと、彼女に才を授けた神様にしか、理解できない。
お母さんは最初、わたしにもわかるのではないかと思っていたみたいだった。わたしがわからないと素直に言うと、今度は「そこはお父さんに似たのね」と、愛しげに瞳をとろけさせて言った。
お母さんは、絵を描いているときにアトリエに他人がいるのをひどく嫌うけれど、お父さんとわたしに限っては、むしろ居てくれた方がより楽しく幸せに描けるそうだ。
以前、絵を描く合間に、お母さんとお父さんが幸せそうにキスしているのを見つけたこともあった。
その光景が、わたしはひどく羨ましかった。
「何、してるかな……」
唇から、吐息と共に声が転がり落ちた。
お母さんがちらりと、椅子に座るわたしへ目を向けた。
「美月はずうっと、武くんのことが大好きね」
名前を口に出さなくても、お母さんにはわかっていた。口の端が、むず痒い。
「うん。大好き。……絶対誰にも渡さない」
最後にごく小さく、お母さんに聞こえないように、付け足す。
お母さんは花が綻ぶように、ふわりと笑った。
「一途ね、美月。私にそっくり」
「ほんと? 嬉しいな」
二人でくすくす笑い合う。と、玄関のチャイムが鳴った。
「わたし、出るね」
「きっと武くんよ」
立ち上がったわたしに、お母さんが言った。
わたしは微笑んだ。
「もしそうだったら、わたし夕方くらいまで出かけるね」
お母さんはわたしの言葉に頷きながら、パレットに、足りなくなっていたきつい赤色を足していた。
「ねえ美月」
わたしはドアノブに手をかけたまま、振り返る。
「なあに」
お母さんは手に持っていたパレットを、思い切りキャンパスへと押し付けた。絵の具の潰れる粘着質な音が、聞こえた。
「あなたのおもうままに、あいするひとをあいせばいいのよ」
お母さんの声は、わたしの声とひどく似ていた。

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