XV

もうだめだ。
駆けていくみんなの姿を見る。
だめだ。これ以上進んだらだめなんだ。近づいてしまう。近づいたら、目の前に欲しいものがあったら、掴んでしまう。諦められなくなってしまう。
今ならできる。今なら引き返せる。
遠くなっていくみんなの背中を見送る。
最後まで迷惑を掛ける。それでもきっと一瞬だ。みんなは悲しむだろう。みんなは本物だからだ。
喉がからからになるくらい焦がれた夢とは少し違う。けれど、それでいいじゃないか。一瞬でも夢は叶う。それに、みんなの記憶の一部になれた。それだけで、贋物の私には身に余るくらいの幸福だ。
土魔獣が私を見ている。土魔獣ではだめだ。ピクシーボブに迷惑が掛かる。それだけじゃない。
贋物を消せる、たった一回のチャンスだ。私が一瞬でもヒーローになれるその瞬間を、私は死んでも誰にも渡さない。

「あれ」
声を上げたのは、土埃まみれで倒れ込んでいた切島くんだった。
切島くんはむくりと体を起こした。きょろきょろと周りを見回す。
「鹿乃さん、いなくね?」
その声で周りを見回したのは僕だけじゃなかった。
ここまで来るのにただ必死で、全然気がつかなかった。確かにあの綺麗な若草色の髪も、ちょっと悲しい微笑もどこにも見つからない。
「ん」
ピクシーボブが唇に人差し指を宛がう。
「方向音痴ちゃん? 途中、みんなから全然離れたとこで土魔獣が消えたから気になったんだよねー」
元々壊れかけてたやつだったから、偶然かと思ったんだけど。
ピクシーボブがそう続ける傍らで、耳郎さんがあちゃあ、と額に手を当てる。
「前から抜けてるとこあんなーと思ってたけど、迷子って!」
「そんなところも可愛らしいです」
苦笑しているけれど、八百万さんは優しい瞳だ。
鹿乃さんは確かに、ちょっと抜けているようなところがある。
抜けているというか、うまく言葉にできない感覚だ。どこかここじゃない場所を見てるみたいなときがある。そういうときの微笑は、ちょっと歪だ。
なんか見過ぎで気持ち悪いと自分でも思うけれど、気になるんだ。変な気持ちだった。そんなこと一度も言われたことなんてないのに、鹿乃さんの笑みは確かに僕に助けてっていってる気がする。それも、とても頻繁に。とても静かに。そして、とても切実に。
「……待って、まずいかも」
ピクシーボブの声色が変わった。
「あっちの方向に行ったとしたら……この森の主に出くわしてるかもしれない!」
「主?」
「私有地になる前からずっと棲み付いてるの。とっても強い森の主。私のどんな土魔獣でも全然歯が立たなくて、凶暴で……私たちでも命の危険を感じるくらいよ」
縄張りに近づかなければ何もしてこないんだけど、一歩でも縄張りに入ると。
そこまで聞いたら、もう黙っていられなかった。
「僕、行きます!」
「え、ちょ、ちょっと君!」

どうして来たの。
その赤い目は一瞬見開かれたように見えた。すぐに元の三白眼に戻ったし、私にとってもうそれはどうでもいいことだった。
「はあ?」
赤い目は動いた。私の前の血だまりを見て、その真ん中に倒れたあまりに巨大な熊を映して、そして私の前に吊られた縄の輪を見た。
「てめえが倒したんか」
答えがわかって言っている。私の額を不自然に滴っていく血を見れば、頭の回る爆豪くんでなくとも一目瞭然だ。
なんでここに来たのか。どうして来てしまったのか。なんで間に合ってしまったのか。
彼に問う暇があったら、私は夢を叶えたい。死んでも叶えたい夢なのだ。この後の爆豪くんの気持ちを推し量る余裕なんてなかった。
きっとこういうところも、私が贋物にしかなり得ない理由なんだ。
縄を持つ手をぐっと握る。木の幹を蹴る。爆豪くんが、訳がわからないという顔をしているのが見えた。最期に空を見上げようとして、次の瞬間、お腹に激痛が走った。
握っていたはずの縄はどこかへ消え失せて、私は気づいたら大きな木の根元で嘔吐(えず)いていた。恐ろしくお腹が痛かった。でもそれ以上に胸が痛かった。顔を上げる。視界が歪む。
「ふざけないで!!」
怒りで頭がびりびりした。クラスメイト達が全員私を呆然と見ている。痛みなんて構わなかった。頭の中が真っ赤で、そして真っ白だった。
「私から取り上げないで!!」
目が燃えるように熱い。変だ。喉も灼けたように熱い。止まらない。
「私がヒーローでいられる瞬間を取り上げないでよ!!」
いつもどこか心配そうに私を見ていたデクくんは、私を殴った拳を握ったまま、揺れる瞳で佇んでいた。
瞳が揺れていたように見えたのは一瞬で、デクくんは怖い顔になった。
「取り上げるに決まってるだろ!!」
怒鳴られる。真っ赤になる。
「デクくんはヒーローだ!! だからもう良いでしょう?!」
「なっ」
デクくんはきっと訳がわからないだろうな。奥の方で静かに様子を見ている私が呟く。
デクくんは本物のヒーローだ。だから、その声はこんなに響く。
「何がなんだか全然わかんないけど、これだけは絶対だめだよ!!」
「そんな酷いこと言わないでよ!!」
お腹の底から声が出た。目が熱い。目が熱い。
「私は今しかヒーローになれないのに!! 夢を叶えられるたった一瞬なのに!!」
「何言ってるの?! きみはヒーローになるために今ここにいるんじゃないか!」
「私は贋物にしかなれない! 私利私欲を優先させる贋物にしか!!」
ありったけの思いを込めて叫んだ。デクくんの表情が、急に驚愕に変わった。何でだろう。なんでもいいか。
デクくんの声が聞こえない。
「私は本物のヒーローになれない! たった一度でもその言葉に頷いてしまったから、お母さんの言葉に! 私のお母さん! 周りなんてどうでもいい、自分自身を守るためにヒーローになりなさいって!! 私の中に入ってきちゃったの、もう戻れないの!!」
全身がびりびり痺れていた。けれど不思議と立ち上がれた。一歩踏み出す。デクくんが縄を持ってる。私がヒーローになれる鍵を持っている。
額を拭う。手の甲に血が見える。きっと伸びた角は、まだ熊の血で真っ赤だろう。私がヒーローになる邪魔をしたあの醜い熊。
私は絶対に、私以外に殺させない。
「ヒーローは自己犠牲の果てにある称号なんだよ」
自分がこんなに低い声を出せるなんて、最後の最後に知った。
デクくんが息をのんだかもしれない。もう聞こえない。
「あの人はまだ4つの私に言ってくれた。私はヒーローに向いてる、君みたいな子が本物のヒーローになれる。そう言ってくれた。でもなれない。もうなれないんだよ……そのたった一瞬を除いて」
デクくんの手は歪だ。でもとっても優しい。その手がきっと数多の人を幸せにするんだろう。
私の手は、私のことしか幸せにできない。でもその手を消してしまえれば、巡り巡って世界の人々を救けられる。
「贋物をこの世から消して、みんなのためになりたいの。その瞬間だけ、私は許される。本物でいることを」
麻縄をぐっと握る。角をデクくんに突き付ける。
「なわ、かえして?」