原作12巻(107話-2)

本気に尊いも賤しいもない。
少年の言葉を聞いたとき、「嘘だ」と静かな声が聞こえた。
それは自分の声だった。

ボールを構えた少年は、ぐぐっと腰を落とした。来る。
鹿乃は親指に針を刺した。ぷくりと浮いた血を見て、足が鹿に変化していく。少年は走り出している。
チェシャ猫の少年は速い。逃げれば防戦からの切り替えが難しい。先に主導権を握る必要がある。目と耳の感覚を研ぎ澄ます。
見て聞いて常に把握しろ、ターゲットの位置を。
ボールを構える。懐、腰、そして右の脹脛(ふくらはぎ)。懐は狙いにくい。だからこそ、3つに意識が分散する今のうちに潰す。
目の前に迫った少年に対して、鹿乃はぐっと腰を落とした。
(集中、集中集中……!)
一瞬。たった一瞬、角を収めるイメージを強く鮮やかに頭に浮かべる。角が若葉に、そして芽になるイメージ。懐に潜りこむ。当然、少年は対応する。同時に鹿乃の右肩にある標的へボールを持つ手が振り下ろされる。
己の角に、確かに手応えを感じた。
「今!」
叫び声と共にイメージを解放した。一秒にも満たない間短く縮んでいた角がその瞬間、大木が超速で育つように突き出た。少年の腕が弾丸で撃たれたような衝撃と共に弾かれる。鹿乃は動きを止めない。止まらないようにずっと訓練してきた。足を止めずに吹き飛ぶ少年の体と至近距離を保つ。
ターゲットに手を突き出す。
バク転で鹿乃と距離を取って、少年はニィと笑った。こめかみを汗が滴る。
その懐のターゲットは、赤く光っていた。
迷っていた。それはヒーローの象徴だ。磨けば、会得すれば、近づくことになる。口に出せば、その自分を一つ認めることになる。
(“必殺技”……<森の槍>)
鹿乃はきつく口を結んで、少年を見据えた。
「強いね鹿乃ちゃん」
その耳が違和感を拾った。
「鹿乃ちゃんの声で、<必殺技>聞きたいなァ」
鹿乃は自分の左腰のターゲットを見た。
赤く光っている。
少年は右手に掲げたボールと共に、にこりと首を傾げた。
「なんていう名前の技なの?」

「……言えないの」
すぐに思考は回り出す。見せられた左手のボールに気を取られた。警戒した。わざと上から腕を大振りしたのも視線誘導だったのだ。
攻めあぐねる。この少年は、強いし聡い。
「どうして言えないの?」
そして、恐ろしい。
鹿乃は唇を噛んだ。と、予備動作も見せずに少年が駆け出した。同時に耳がぴくりと動く。
耳に伝わった通り、背後の受験生の方がチェシャ猫の少年より近かった。標的は右肩に1つ、そして左肩に2つ。
右脚を踏み込む。左で回し蹴り。直撃した。体幹を意識して、そのまま相手の体ごと右脚に引き寄せる。両脚でぐっと相手の腕と腰を挟んで、上体を寄せる。受験生の瞳孔が恐怖に開く。まず左肩の2つからだ。
ポンと電子音がした。直後、鹿乃のボールが立て続けに2つターゲットに触った。
失格となった受験者から後ろに飛び退く。膝から崩れ落ちた女子生徒の向こうで少年が鹿乃ににこっと笑う。
当然、少年のことも警戒していた。しかし挟み撃ちにできる状況だったことに違いはなかった。
鹿乃の失ったターゲットは今も左腰の1つだけだ。
「鹿乃ちゃんは頑固なんだね」
鹿乃の表情を見た少年は、ひどく嬉しそうだ。
「また1つ知っちゃった。可愛いなあ! でもね、だからこそ何回だって言うよ。知ってほしい。わかってほしい」
金色の目を見て、自然と首筋に力が入る。
どうしてこれほど、怖いと思うのだろう。
「僕の本気も周りの本気もみんな同じなんだよ。本気に、上も下もない」
森の奥深く、頭を抱えて首を振る自分がいる。「嘘だ」
鹿乃の声がする。
「本物と贋物で、本気が“同じ”わけがない」

少年は小首を傾げた。
鹿乃の声が自分のその先の何かに向いている。
そして、そうはっきりとわかったことに、体の芯が歓喜する。
自分の言葉で、自分の根幹となる部分を伝えられる。鹿乃がそれを聞いている。その上で、何か考えている。これほど嬉しいことはなかった。
「鹿乃ちゃんが何をもって“本物”、“贋物”って言ってるのかはわからないけど……」
だからこそ、邪魔立ては許さない。背後に迫っていた受験者を振り返って視認、急所の鳩尾を思い切りつま先で抉る。男子生徒は吹っ飛び、うずくまって動かない。一秒たりとも余計な時間を使いたくなかった。
鹿乃だけを真っ直ぐに見る。
「世の中には本物と贋物がいるかもしれない。でもね、“本気”に本物もにせものもない」
鹿乃の翠の目が大きく揺れている。理由は自分の言葉にある。鹿乃の中に自分がいる。どうしてこれほど幸福なのだろう。
決まっている。
この子のことが、本気で好きだからだ。
「誰がどんな理由で抱えていたって、“本気”は確かに“本気”なんだよ」