原作9巻(72話)

「ラグドールがいるから、あの子の居場所はすぐわかる。そしたら、私のテレパスがある」
だから大丈夫。イレイザーには朝、そう伝えた。
ここには遊びに来たわけじゃない。合理的な判断だと思う。でもそう判断したからって、心の底から一色なわけじゃない。救助っていう、一つの判断が事態を一転させてしまう現場に長くいるからわかる。
ちらと見ると、鹿の子はちゃんとそこにいる。大の大人10人が集まっても動かせないくらいの重い荷物を、鹿の角だけにひっかけて引いている。今の段階で少しずつ少しずつ、荷がずるずる動いていることに驚く。
様子を見ていると自殺を考えるような子にはとても見えない。朝食のときそう言った私に、ラグドールが首を振ったのを思い出す。
「アチキには逆に見えるよ。まだすぐ死んじゃいそうな目、してる。そゆ人の目って、普段すごくすごおく澄んでるの」
よくもわるくも、純粋なんだにゃん。
くりくりの目をしたラグドールはそう言った。この子は個性柄、もう星の数ほど人を見てきてる。そうなんだろうなと、すとんと思った。
鹿の子。名前を津野鹿乃さんと言う。イレイザーから雄英が把握してる彼女の情報は聞いた。かつてメディアを中心に取り沙汰されたのは短い期間だったけれど、衝撃的だったから覚えてる。ステインが逮捕されたときにも、その影響力を生々しく示したかったのか少し取り上げている番組もあった。
ヴィラン名<リビングデッド>は今、監獄タルタロスの中に居る。

ヒーローの卵とはいえ、適切に水分を摂らないと人間だからぶっ倒れる。しかし水分補給の度に個性の発動を止めていたら、この訓練の意味がない。
轟は風呂に浮かべてある水筒を手に取った。炎を氷に切り替えながら、ちらと左奥を見る。
(やっぱ水分補給してねえな)
轟が修行をしている位置の関係で、鹿乃の姿は常に視界の端にある。荷を一定距離角だけで引いては、逆方向へ角だけで押している。引くときには引くのに適した、押すときには押すのに適した角の大きさや形態に変える必要があると、先程マンダレイのテレパスが飛んでいた。
ヘラジカに似た、しかしまだ形の歪な角で荷を押す鹿乃の左腕がこちらに見えている。指先から血が滴っている。
昨日、鹿乃が緑谷の言葉に心動かされたことは誰の目から見たって明らかだった。けれどその胸には今までに抱えてしまったものがある。ぐらぐら揺れる心で考えることがいかに難しいか、何もわからなくなるか、轟はよく知っていた。
鹿乃の周りの地面を見る。赤黒い染みがこの距離でいくつも見える。
ふっと頭に浮かぶ。おびただしい血痕、流れ続ける鮮血、血のにおい、絶叫、笑顔。
ぞあっと背中を寒気が走った。我に返って氷を炎へ切り替える。一気に汗が噴き出してくる。大規模な炎となるとまだ温度の加減に慣れない。
もう一度鹿乃に目を遣る。肩で息をしている。汗と血がぽたぽた落ちていく。
(あいつこのままだとブッ倒れんな……)
どうしたものか、と考える轟の目に映ったのは、鹿乃がうねる土塊に大きく跳ね飛ばされる瞬間だった。
「鹿乃さんーーー!?」
飯田の叫ぶ声が高速で遠ざかっていく。
ぽーんと飛ばされた鹿乃は土の坂をごろごろ転がって、最後にまた小さく跳んでピクシーボブの隣に着地した。ピクシーボブの猫チョップが鹿の角を避けて綺麗に鹿乃の頭に入る。頭をおさえてくらくらする鹿乃の様子からして、かなりの威力だ。
鹿乃はピクシーボブに何事か言われている。
真剣な眼差しのピクシーボブの前で、少し俯いた横顔は沈黙している。
ややあって、鹿の角がするする縮んだ。鹿乃は頭を下げてピクシーボブを見た。
唇が開く。何か言う彼女の目線が、だんだん下がっていく。
ピクシーボブが眉尻を下げた。ずいと猫の手がペットボトルを差し出す。
「朝持ってかなかったでしょ。とりあえず水分摂りな!」
轟が様子を見ている中で、鹿乃は素直にこくりと頷いた。ペットボトルを受け取った右手には、血が見えなかった。
轟は短く息を吐いて、再び右の氷に切り替えた。