原作10巻(85-86話)
「ん……」隣が身じろぎする。戦闘態勢の爆豪を含め全員が注目する中で、ゆっくりと目が開く。静かな森の色の瞳。
「……良い夢は見れたか? 君は違うだろう?」
不気味な手のひらの奥で、死柄木が笑う。
「<リビングデッド>の落とし子、津野鹿乃さん」
鹿乃の澄んだ瞳は、静かに死柄木を見つめる。
すぐに奇妙だとわかった。鹿乃へ笑いかけた赤い瞳のその人とはもう二度と会えないことを、ずっと昔に知っている。
「久しぶりだね、鹿乃」
深く低い声に思い出す。読んでくれた絵本のこと。寝かしつけてくれた大きな手を。
あたたかな赤の眼差しに、心臓をきつく締め付けられた。
「 」
名前を呼んだ。声が出ない。その人は悲しそうに笑う。
「ここは現実じゃないからね。鹿乃の声、聞きたかったな」
赤い目が鹿乃だけを優しく見つめる。駆け寄りたかった。足も動かなかった。
「鹿乃、きみが自分を責めていると聞いたよ」
一瞬にして、心臓は凍り付いた。
体中の血が冷たくなった。何を……何を聞いたの?
歯の根が合わなくなる。
それは恐怖だった。鹿乃は恐怖していた。男は確かに鹿乃の原点だった。その彼に自分が贋物にしかなれないと知られてしまう。戦慄した。それくらいなら舌を噛み切って死ぬ。そう思うのに、体が動かない。
「ごめんね。僕のせいだ」
大好きな声が、一番聞きたくないことを言う。涙すら溢れない。泣くことすら許されない。
正当の罰だ。
男はじっと鹿乃を見た。とても静かで深い赤。鹿乃にあたたかに微笑む。
「でもね鹿乃、大丈夫だよ。君は本物になれる。君こそ本物になれるよ」
赤い瞳が、鹿乃だけを映した。
その一言がいつだって救いだった。呪縛にも似た最高の祝福だった。何度だって前を向こうと、諦めないでいようと思えた。
懐かしい声。本物になれると言ってくれた。
真っ赤の、真っ直ぐの瞳。
勝ち逃げとか許さねェ、ブッ殺ス!
ふっと目の前が揺れた。
リビングデッドが優しく笑う。
「世間は認めないかもしれない。けどね、鹿乃は本物のヒーローになれる。……“別の道も、あるんだよ”」
一緒に探したいんだ。
今度は、はっきりとわかった。
「デクくんの声だ」
暗転。遠くから、爆発の音がする。
鹿乃はゆっくりと目を開けた。
大好きな人<リビングデッド>と、もう一つ。
「わからなくなっちゃったんだろう?」
死柄木の声は、ぞっとするほど優しい。
「大丈夫。人間なんだ。わからなくなることだってあるさ」
「君がステインの仰る主張に強く賛同していると聞いた。それもよくわかる。良い目をしてる!」
死柄木は鹿乃に歩み寄った。
「俺達と世界を見よう。世界は広い。君の探す道は、必ずここにあるよ」
沈黙は穏やかで、それ以上に張り詰めている。
「確かにもう、何もかもわからない」
ややあって落ちた声は、とても澄んでいた。全神経をぴんと張った状態で爆豪は彼女を見る。
どう転ぶかわからない。血まみれで笑った彼女の姿は、爆豪の脳裏にも鮮明に焼き付いている。
鹿乃は俯いている。唇をきつく噛んでいるのがわかる。つう、と血が唇から滴っていく。
「でも」
組まされた上で拘束されている手の親指に、ぽたっと一滴落ちた。
爆豪は、鹿乃と一瞬目が合ったのを感じた。
全部察した。手の汗を意識する。
「でも! この道が違うってことは、はっきりわかる!」
一歩踏み込んで、目の前の気色悪い手の前で思い切り爆破する。
澄んでるだけの気味悪ィ目じゃなかった。
テレビの向こうから相澤の声がはっきり聞こえる。
“敵は浅はかであると、私は考えております”
「そういうこった! クソカス連合!!」
気色悪い手が床に転がって、死柄木の切れた唇から血が滴る。隣でガキンと派手な音がする。拘束具が床に転がった。
爆豪の傍らに、美しい翠の鹿が悠然と佇む。
「言っとくが俺“達”ァまだ、戦闘許可解けてねえぞ」
