X(前編)

ロンドンの夜は少し寒い。ジャージの長袖に覆われた両腕をさすりながら、黒々と木々に縁取られた道を行く。コートにタオルを忘れたのだ。夜も練習している選手が多いので、もう間違えて持っていかれてしまったかもしれない。お気に入りなので、そうだったら少し悲しい。あってくれますように、と祈りながら、小走りでコートの明かりの方へ向かう。夜風にざわざわ鳴る木々たちは、影のように揺れている。
その人たちは、あまりに突然現れた。目の錯覚かと思って、何度も瞬きしてみる。足は、自然と止まっていた。
私と同じくらいに見える二人組だ。血みたいに赤い、ユニフォームのようなものを着ている。手にラケットを持っているけれど、なんとなく近寄りたくない。
「お前に居てもらっては困る」
何を言われたのかわからないのに、背中が一気に鳥肌立つのを感じた。後退る。二人のどちらかが何か呟いた。
片方のラケットが動く。
私は逃げ出した。そうすべきだと強く誰かが私に囁いた。見通しのよい道から、脇の木々の中へ逃げ込む。
枝が引っ掻いたようで、鈍い痛みが頬で脈打っている。
相手の姿も見えなくなるので、ものすごく怖い。しかしこれだけ木があれば、きっとボールを当てられはしないはずだ。
とにかく、人のいるところへ逃げ込もう。静かに佇む幹の間に、人の光を探す。口が渇いて、呼吸しにくい。心臓が耳元にあるみたいなのに、ちゃんとこちらを追ってくる足音は聞こえている。息が震える。足がもつれたら、終わりだ。
視界が開けた。道に出てしまったみたいだ。後ろには戻れない。震える足を叱咤して、前の暗い森へ向かう。
「三藤さん!」
その声は、確かに私を呼んだ。私の足は動かなくなった。
暗くて何も見えない森よりも行きたい場所ができたのだ。振り返った私に迫るボールを、夜空の色だと見る度思っていたラケットが打ち返す。同時に痛いくらい強く、腕を大きな手が引っ張った。
「し、白石くん」
情けないけれど、背中の頼もしさに目の前が滲む。ともすれば足だって止まってしまいそうで、必死に鞭を打つ。
「大丈夫や。心配ない」
落ち着いた柔らかい声がこんなに安心するなんて、知らなかった。
白石くんはちらりと私を振り返った。ほんの一瞬、力強い黒の瞳と目が合う。
「絶対守ったる」
唇をきつく結ぶ。目が熱い。声が出せなかったので精一杯頷いた。白石くんには、伝わっただろうか。

白石くんは、コートで一人謎の集団と戦っていた手塚くんと合流した。
「悪いけど、混ぜてもらうわ」
ずっと強く導いてくれた手が、フェンスの方へと庇ってくれる。私はフェンスに背中をぴったりくっつけた。
「そこにおってな。絶対、離れんといて」
何度も頷く。足はがくがくしてまるで生まれたての鹿のようだ。
「手塚クン、人数増やしてもうた。堪忍やで?」
コートに、客席に、赤と黒のユニフォームがゆらゆら揺れる。訳のわからない状況だったけれど、目の前でラケットを構える二人の背中を見ていると、もう大丈夫だという気がした。

謎の集団たちは、四方八方から二人へボールを打ち込んだ。白石くんと手塚くんは背中合わせになって、肩で息をしながらも、それらを全てさばき切っている。
「流石にこの人数相手やと、ちと厳しいなあ」
白石くんの表情は、見たことがない険しさだった。何もできずに必死にフェンスにへばりついている自分が情けない。怖くて動けない。
再び、ボールの放たれる音がした。普通のミート音と少し違う。手塚くんが白石くんを逃がすように押した。ボールが空を切る奇妙な音がする。
嫌な予感がした。
私が咄嗟にしゃがんだ直後、手塚くんが素早く屈んだ。頭上のフェンスが悲鳴のような音を立てて軋む。白石くんと手塚くんが、呆然とそのボールを見ている。
「手塚ぁ!」
「白石ーっ!」
声と駆けてくる大勢の足音とを聞いて、不気味な集団は木々の間へ引き上げていく。
もう限界だった。冷たいコートの上にへたり込む。
呼吸がうまくできずに、息が震える。皆の声が遠い。膝についた手の震えがおさまってくれない。
「ってのんちゃんも?!」
菊丸くんの声に顔を上げる。皆の姿が奥に見えた。一番近くに立つ人を見上げる。目が合った。
伸ばした手を引っ込めて、白石くんは私の前に座り込んだ。
「一人では守り切れんかったわ。堪忍な」
少し冗談っぽく笑う優しい声が、心臓の辺りをそっと揺さぶる。
白石くんの手に目元をそっとなぞられて初めて、自分が泣いていることに気がついた。瞬きすると、一緒に生温かい雫が頬を伝っていく。びっくりして、自分のジャージの袖に目をうずめる。
「白石くん、ありがとう。ありがとう……」
顔が上げられない。こんなのは、お礼失格だ。
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