X+1:襲撃翌日

うすぼんやりと広がっていく光景に動く人影を見つけて、氷水を頭から被らせたような心地で目が覚めた。
「何じゃ! どうした?!」
思わず悲鳴を上げてしまったけれど、白いTシャツ姿の竜崎先生だった。奥にきちんとシーツの畳まれたベッドがあって、上に先生の着替えが置いてある。
「ごめんなさい! あの」
こちらを見る不気味な二つの影や、闇の中を迫ってくる足音が頭の中を駆けていく。最後にはっきりと私を呼ぶ声が蘇って、こわばっていた体中から恐ろしさが逃げていった。
「……大丈夫です!」
「そうかい?」
竜崎先生は心配そうにしてくれている。
静かな朝だった。カーテン越しに部屋を照らす朝日も、遠くから聞こえる鳥の声も、昨夜のことが嘘みたいに穏やかだった。
ベッドから降りる。とにかく、着替えないといけない。先生と各学校の部長副部長、それに私は、朝一番で昨晩襲撃を受けた選手の様子を見に行くことになっている。
何もかもわからない状況だ。今はただ、皆の怪我が明日の試合に影響しないものであるように、祈るばかりだった。

幸い、選手たちの怪我は重いものではなかった。幸村くんや真田くんにベッドの上で平謝りする切原くんの姿を見届けて、病室を出る。他国の選手の姿が廊下にちらほらとあった。昨晩の被害者は、思っていたよりたくさんいそうだ。安堵の表情の人もいれば、やりきれなさに顔を歪めている人もいた。
知らず視線がつま先に落ちる。世界中の好敵手と戦って自分の実力を試したいのは、どの国の選手も変わらないはずだ。
ラウンジへと戻ると、待機していた白石くんと小石川くんがこちらを向いた。幸い、四天宝寺には襲われて怪我した選手が居なかった。
「三藤」
「どうやった? 皆の様子」
「桃城くんはぐっすり寝てたし、鳳くんや宍戸くんも大丈夫みたい。切原くんなんて先輩たちに謝ってたよ」
「怪我したのに謝ってるんかい……」
小石川くんは顔を引き攣らせた。
その隣で、白石くんはじっとこちらを見た。
どうしてだろう。白石くんには考えていることが何もかもわかってしまうみたいだ。そして私は白石くんの、いつも変わらない凛と光る黒い瞳を見ると、つい口を開いてしまうのだ。
「他の国の選手もたくさんいたよ。悔しそうにしてる人たちもいた……」
「そうか」
うまく言葉にできないもどかしさを受け止めてくれる、柔らかい声だった。男女の差とか声質とかではなくて、私や他の誰にも真似できない、白石くんにしか出せない声だと思った。
ラウンジは一面が全て窓になっていて、陽の光がたっぷりと白い丸テーブルや椅子に注がれている。テニスコートの人工芝たちも一斉に芽吹いてしまいそうな眩さで、選手たちに落ちる影は一層濃く見えた。

その後、各校の部長副部長と先生方とで、この件への対応を話し合った。
犯人に明確な攻撃の意思があったこと、何もかもが謎に包まれている中で、私たちと同い年くらいの者たちがテニスラケットとボールを用いていたことだけは確かであるのもあって、どんなふうに対応するか考えるのは凄く難しかった。
警察に通報すべきという意見を述べた幸村くんは、険しい表情だった。腕を組んで黙っている真田くんも、同じ目をしている。
「まー明日には大会もあるし、もうちょい何か情報が無いと、何とも動けんところではありますなあ」
オサムちゃん先生が帽子の上から頭をがしがしと掻いた。直後、ラウンジに大きな音が響いた。
倒れた椅子に目もくれずに、大石くんは見開いた双眸で、スマートフォンの画面を見ている。
「先生! 合宿所の部員たちが、犯人のグループの少年一人と接触しているらしいです!」
「え?!」
「何だって?!」
竜崎先生も椅子が倒れんばかりの勢いで立ち上がった。
「監督」
跡部くんに、榊監督は頷いてみせる。
「すぐに合宿所へ戻るぞ」

階段式の客席に囲まれたコートから、ラリーの音が聞こえてくる。そこに悲鳴も呻き声も無かった。ほっと息を吐く。
越前くんと試合しているのは、手足の長い黒髪の少年だった。私たちと同い年くらいだ。越前くんのボールを丁度打ち返したところだった。鋭い打球がネットを揺らす。
越前くんと互角に打ち合っているように見えるけれど、少し変だ。少年の体の動きは何か引っかかる。
怪我をしてる?
越前くんがトスを上げた。力を溜め込むみたいに、ぐっと膝を曲げる。ラケットの中央がボールをとらえて、全ての力が解き放たれる。
少年は、ボールに触らなかった。さっきまで打ち合っていたはずの越前くんのことを、亡霊でも見るかのような目で見つめていた。
「俺の名前はリン・シウ」
リン・シウと名乗った少年は、越前くんに名前を聞いて小さく笑みを零した。客席にいる皆に、その目が向けられる。
「どいつもこいつも大した腕だ。奴らが潰しにかかるのもわかる」
何を言っているかはわからないけれど、攻撃的な言葉ではなさそうだ。彼は再び越前くんへと視線を戻す。笑みはそのままだ。侮蔑でも嘲りでもない、何か覚悟を決めて要らないものを全て捨てた後のような表情に見えた。
「ありがとよ、楽しかったぜ」
少年が何か言い始めたくらいから、跡部くんがコートの方へ歩み出した。同じように歩き出した白石くんが私を見る。
「ここから立ち去ろうとしとる。事情を知っとるみたいやし……このまま帰られては困るんや」
そう言った白石くんの瞳は、私の目から少し逸れた。
頬の傷テープを見ていたのだ。私が気づいたときには、もうその双眸は背中を向けて見えなかった。何故だかちょっとの間、私の足は動いてくれなかった。
リン・シウに詰め寄る海堂くんを手塚くんが制止した。
彼と対峙した白石くんが一歩前に出るのを、小石川くんと並んで少し下がったところから見守る。少しだけ見える白石くんの横顔は、ぞっとするほど静かだった。
「キミ、夕べの連中のことを、知ってんのやろ」
声も、固くて低い。普段の柔らかくて安心するような響きが一切無い。リン・シウに剣の切っ先を向けているようだった。
「我々にはそれを知る権利があると思うが」
手塚くんの冷静な声が続く。リン・シウは目を閉じた。何かを考えているようにも、言い聞かせているようにも見えた。首元に筋が浮かんで、一瞬にして消えた。
「クラックだ」
目を開けると共に、彼は言った。
クラック、と越前くんが訝しげに単語を繰り返す。
クラック。きっと何かの名前だ。昨晩の謎の集団か、その首謀者か。わからないけれど、皆は今リン・シウからその正体について聞こうとしているのだ。
「ロンドンを中心に動いているストリートテニスのグループ……といえば聞こえは良いが、実態は殆ど潰し屋だ」
リン・シウは淡々と話し出した。途中、リーダー、キース、プレイヤーと言葉が並ぶ。話を聞く皆の顔が、徐々に険しいものになっていく。
「リアルテニス」
跡部くんが、リン・シウの話から拾い上げて確認するようにその言葉をなぞった。
「夕べも言うてたけど、なんやソレ」
乾くんが金ちゃんの疑問に答えた。今のテニスのルーツで、使っているボールにはゴムボールの比ではない威力があるらしい。昨晩のひしゃげたフェンスが目蓋の裏を過ぎる。あれは白石くんや手塚くんを目がけて打ち込まれたものだった。ぞっとする。
「キースたちの今後の狙いは、明日からウィンブルドンで開かれる大会だ」
リン・シウが皆を見回す。ウィンブルドン、大会。その目に警告の色が見えた。
その後も静かな口調で話を続けたリン・シウは、跡部くんに何か聞かれて一度、己の手に視線を落とした。
指に銀のリングが光っている。とても珍しい形のもののように見える。今日、先生たちとの話し合いの場にも出てきた。昨日の謎の集団が皆はめていた指輪だ。
リン・シウは真っ直ぐ跡部くんを見返した。
大石くんが何か聞いた。その声は驚いている。彼の問いに、リン・シウはただ視線を返すのみだった。忍足くんが口を開く。
「クラックのメンバーってことは、アンタも公式戦に出られへんってことかいな」
「今は……そうだ」
リン・シウの瞳の先で、銀のリングは陽光に煌めく。
「クラックがどこに居るか、知っているんだね」
どこに、と大石くんは確認するような口調で言った。リン・シウが口を開くのを、全員が静かに見ていた。
「キング・オブ・キングダム」
「……キング・オブ・キングダムだぁ?」
跡部くんが眉間に皺を寄せた。「王国の中の王、ね」不二くんが呟く。かつて世界の頂点に君臨していた国だ。ネーミングは、それくらいに派手なのかもしれない。
大石くんは大股でリン・シウに歩み寄ったけれど、リン・シウの返答は素っ気ないものだった。大石くんの声に憤りが見える。
「奴らを庇うのかい?! もとは仲間だから」
「クラックは」
大石くんを見たリン・シウの表情は、今までで一番険しいものだった。
「必ず俺が潰す」
クラック、自分、潰す。その言葉の内容は、たぶん何者にも覆せないだろう。
皆の表情に良いものは浮かんでいない。痛いと思って初めて、私は自分が下唇をきつく噛んでいたことに気がついた。
「朝までに俺が戻らなかったら、警察に届けるなり好きにしろ」
「しかし……!」
「頼む」
大石くんの目が揺れている。どうすべきか本気で決め兼ねているみたいだ。
沈黙を破ったのは、一つのため息だった。
越前くんだ。
「んじゃ、任せたらいいんじゃないスか」
いつもの飄々とした口調で、越前くんはそう言った。リン・シウに任せる。たぶんさっきのリン・シウの言った単語からして、クラックを倒すことだ。
「何を言うんだ越前!」
ようやく話が少し掴めた。手塚くんや白石くんが驚くのも、大石くんがそう言うのもよくわかる。
私は改めて、ノースリーブのユニフォームのリン・シウを見た。鍛え抜かれている体だ。筋肉の筋が浮いている。肩幅も広い。
やっぱり、少し変だ。
不二くんのものらしいラケットを大石くんに手渡すときも、なんだか変だった。何だろう。やっぱり、怪我をしているように見えるのだ。
幸村くんの問いかけに何か呟くように答えて、リン・シウが顔を上げた。初めて、目が合う。
「……え?」
思わず一歩後退った。
その目が、とても驚いたように開かれたのだ。
リン・シウは私の纏うジャージと、手にしていた先ほどの話し合いをまとめた書類とを見た。
「マネージャーがいたのか……」
こちらへ一歩近づいたリン・シウの表情は、険しいものに変わっていく。それ以上歩みを進めることなく、私の目を真っ直ぐに見て、彼は口を開いた。
「お前は特に、クラックに関わるな」
「……何なんそれ、どういうことや」
庇うように前に立ってくれたその人は、とても険しい口調だった。リン・シウは何も言わない。踵を返して、階段の方へ歩いてく。
「白石くん……」
振り返った黒曜の瞳は、私を映して揺れている。こんなに白石くんが動揺しているのは、初めて見た。私は一体、リン・シウに何を言われたのだろう。
「あの人、どこもかしこもダメージを負ってるみたいだった……」
私にわかるのは、たった一人で去っていく背中が、足が、大きな痛みを抱えているということだけだった。
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