つまらない恋の話
2.恋愛なんて学生時代、付き合っていた子に「テニスばっかでつまんない」と振られた。それから自分にとって恋愛とは、いつもなんだか面倒なものだった。
プロになって世界を飛び回る生活の中で心を寄せてくれた人も最初は「日本で待ってるよ」と笑って言ってくれていたのに、結局「寂しい」「全然会えない」などと不満を言い出し、大喧嘩の末に別れた。
ではこうしようと、次に付き合った人を海外に呼んでツアーに同行させてみたが、それこそはじめは「毎日一緒で嬉しい」「海外旅行みたいでワクワクする」などと目を輝かせていたが、すぐに「思ってたのと違う」「観光もろくにできない」と勝手に幻滅され、呆気なく破局した。
女って面倒くさい。恋愛なんて、しなくていい。いつしかそう思うようになっていた。
テニスがあればそれでいい。
だってテニスは俺を肯定してくれるから。絶対に俺を裏切らないから。
初夏、ウィンブルドンの練習日コートには芝の匂いと汗の熱気に満ちていた。ボールの音、選手たちの息切れ、コーチの指示が響き合う。ウィンブルドンの初戦まで一週間を切った。その喧騒の中で黙々とラケットを振っているとフェンスの扉がギイと鳴って開き、跡部さんが入ってきた。今日はテニスウェアを纏って。ワイルドカード枠で本戦出場を叶えた彼もまた調整のためにコートに入った。
「預かってきたぜ。完成品だ。」
跡部さんはパチンと指を鳴らすといつもの秘書の女性がやってきて、箱を一つ抱えベンチの上で丁寧に開封した。相変わらずスーツ姿の彼女は、足元を見るとヒールのない平なパンプスを履いていた。芝を傷めないよう配慮しているのだとすぐに分かった。
「本戦まで日があるから履き潰して慣れろ。不具合があれば無理せずいつものに戻せよ。」
そう言って得意げに笑みを浮かべて跡部さんは自分の練習を始めた。新しいシューズを箱から抜いて履き始めると、秘書の女性がこちらを見て「空き箱はこちらでお預かりしましょうか?」と柔らかい口調で言った。
「いや、このままでいいよ。俺スニーカーとか箱で取っとく派なんだよね。」
「そうでしたか。新しいシューズ、足に合われるといいのですが。お気付きのことがあれば遠慮なくおっしゃってくださいね。」
そう彼女は微笑んでコートを出ると、フェンスの向こう側に立った。その視線は跡部さんに注がれており、時に電話が鳴ればスマホを肩に挟みながら手帳を開き、跡部さんが休憩に入れば近寄って何かを話す様子が見えた。凜とした振る舞い。洗練されたプロフェッショナリズムを漂わせる彼女の姿を、俺は熱と緊張が走るテニスコートの中から視界の隅に捉えていた。
本戦を二日後に控えたある日、今日も練習コートで調整していた。ふと視線を上げると一つ向こうのコートでいつものようにコート脇に立つ跡部さんの秘書の姿が見えた。今日も姿勢よく手帳を抱え、凜と前を向いていた。
コートでのメニューを終え次に会場内のジムに向かおうとコートを出た時、秘書の女性が珍しく慌てた様子でコートを離れていくのが見えた。手帳を畳み、スマホを握りしめていた。いつだって冷静で穏やかで悠然とした印象の彼女のどこか焦りが滲む足取りに、何故か気になって思わず後を追ってしまった。
コートの裏手、選手エリアの喧騒から少し離れた通路。彼女はそこに立っていた。電話を切り、肩を落とした後ろ姿。いつも背筋を伸ばし凜と立つ彼女が、今はまるで別人のように小さく見えた。その肩が微かに震え、横顔から目に光るものが見えた。涙だった。
数秒、彼女は固まったままだった。しかしパッと顔を上げコートの方へと振り返った。その瞬間、バチリと目が合ってしまった。
「…っ」
「すみません、みっともないところをお見せしました。」
彼女は目が合った瞬間すぐに表情を引き締め、いつものように綺麗に微笑んだ。でもその笑顔はどこか無理をしているように見えた。口角は上がっているのに、目が僅かに揺れている。
「いや、別に…」
勝手に追いかけたのはこっちだ。立ち去ろうとしたその時、その瞳が再び揺れた。今にも涙が溢れそうになるのを見て、胸が締め付けられてしまった。
「…大丈夫?」
つい声をかけてしまった。だって、泣きそうな顔をするから。
「…。恋人に、振られちゃいました。仕事ばかりでつまらないって。」
いつものしたたかな口調とは違う、その言葉が心に鋭く突き刺さった。「仕事ばかりでつまらない」。どこかで聞いたことのあるフレーズ。いや、何度も聞いてきた言葉だ。"テニスばっかり"。
自分が自分でいるだけなのに、好きだと言ってくれたはずの人が勝手に物語を空想し、勝手に期待して、勝手に幻滅していく。あの時の痛みが胸の奥で疼いた。
「…それ、俺もよく言われた。」
それは弱音のように、自分でも驚くほど素直に言葉が溢れた。正面の彼女を見ればどこか頼りない、情けないような顔をしてこちらを見ていた。きっと俺も同じような顔をしている。
「そう、でしたか、越前さんも…。」
彼女は小さく呟き、微かに笑った。情けない顔で俺たちは小さく笑い合った。
恋愛なんて、いらないと思ってた。面倒と思ってた。寂しそうに微笑んだ彼女を見て、ふと胸をよぎる気持ち。そうか。違う。多分俺、寂しかったんだ。人からガッカリされるたび、本当に自分を愛してくれる人がいないことに勝手に傷付いて、勝手に心を閉ざしていた。
俺は恋愛という感情を悪者に仕立てて、ただ拗ねていただけだったのかもしれない。
コートの喧騒が遠く聞こえる中、彼女の涙と自分の弱音が、ウィンブルドンの片隅で静かに交錯した。
≪前 | 次≫
←main