つまらない恋の話
3.こんな人にその午後、ジムで追い込みをかけてタオルで汗を拭っていると、ガラス張りの扉の向こうを跡部さんと、その後ろを秘書の人がついて歩いていく姿が見えた。
先ほどのことがまるでなかったかのように涼しい顔で、彼女は姿勢正しく会場を歩いていた。
次はコーチと合流するためにシャワーの浴びてラウンジに向かった。そこには跡部さんが複数のスタッフに囲まれて座っていた。その正面にはメディアゼッケンをつけている人が座っている。取材に応じているのだろう。跡部さんは余裕の笑みを浮かべながら受け答えをして、時々後ろから彼女が資料を差し出し何か補足をしているようだった。跡部さんは視線も合わせずそれを受け取って、文字にだけすうと目を通し背後にいる彼女に戻していた。
その息のあったリズムに感心する。その手際はさることながら、さっきはあんな情けない顔をしていたのにそれを微塵も漏らさず、仕事モードで集中する彼女を素直に「すごいな」と思った。
人間らしい脆さと、その綻び。
秘書の仮面を被り完璧な振る舞いをみせる姿。
ふと、疑問が浮かぶ。
…恋人、ねえ。
いつも跡部さんについて回って、忙しそうなのに、恋人なんていたんだ。
無意識に視線は、彼女の背中を追う。取材が済んだのかメディア陣は席を離れ、彼女は几帳面に彼らが使った後の椅子を机の下に戻していた。
跡部さんと毎日一緒にいるようだけど、彼女は跡部さんと恋愛関係にはならないのかな。なぜだか、そのことが妙に気にかかった。
自分を呼び出したくせにコーチがなかなか現れない。ラウンジのソファで暇を持て余していると、ため息混じりの声が降ってきた。
「おい、見過ぎだ。」
顔上げるとそこには跡部さんがいた。
「何が?」
「俺の秘書に何か用か。」
「別に…。綺麗な人だなって思っただけっすよ。」
適当なことを言って切り上げようとするも跡部さんはあからさまに呆れた顔をして大きなため息をついた。
「なんすか。」
「あいつはここに仕事で来てんだ。邪魔するんじゃねえぞ。」
「なんだかやけに大事にしてるんすね。」
「相変わらずの減らず口だな。」
跡部さんは鼻で笑って踵を返した。
思い立って、その背中に投げかけてみる。
「跡部さん、今年こそウィンブルドンで勝負したいっすね。」
「フン。俺様の投資したスターが、どこまでやれるか見ものだな。」
跡部さんはそう応えると、手をひらりと挙げて去っていった。ラウンジを抜けるその足取りを秘書である彼女はぴたりと追いかけていった。
当然彼女の仕事を邪魔するつもりはなかったけれど、見過ぎているつもりもなかった。
“あいつはここに仕事で来てんだ”───確かに彼女の立ち振る舞いはまさにそんな感じだ。あの誇り高い跡部さんがそうとまで言うほどの信頼を置かれている女性。そんな人が恋人に「つまらない」と言われて泣いていた。あの姿が、頭から離れなかった。
来る日、ウィンブルドンの本戦が始まった。選手エリアは活気と緊張感に満ちていた。忙しなく走り回る会場スタッフ、見知ったライバルたちの顔。ロッカールームに向かう道、イヤホンを耳に押し込んだ。大音量の音楽で外界をシャットアウトし自分の呼吸にだけ集中するはずだった。向こう側から、たくさんの人を引き連れ跡部さんがやってきた。その隣にはやはり彼女がいて、タブレットを除き込み、二人で淡々と何かを話していた。
視線に気付いたのか、彼女が一瞬こちらを向いた。ほんの一瞬、目が合ったかと思えばすぐにふいと逸らされた。
「は?」
たったそれだけのことに、胸の奥にモヤモヤとした何かが溜まった。なんだ、この気持ち。
試合前のひりついた精神に、その些細な機微が乱れを誘う。
何してる、集中しろ。キャップを深く被り、音楽のボリュームを上げた。
初戦の相手は予選から勝ち上がってきた若手選手だった。ラケットを握ってしまえばコートの外で感じた苛立ちなど小さなことで、俺は危なげなく二回戦へと駒を進めた。
記者の囲みを抜けロッカールームに向かう途中、再び彼女を見つけた。珍しく一人で廊下の隅に立つ彼女は、俺を見つけるといつもの仕事の顔で口角を上げて会釈した。今度はちゃんと目が合った。それで何の問題もないはずなのに、試合前の心の揺らぎが再び迫り上がる。つい口から、思ってもいない言葉がこぼれた。
「さっき、なんで無視したの?」
自分でも驚くほど、不機嫌な声だった。彼女は少し首を傾げるも、穏やかな声で答えた。
「いえ、集中されていらしたので、試合前でしたしお邪魔しては悪いと思いまして…気を悪くされたのならすみません。」
するすると淀みなく出てくる言葉。まるで、彼女には何の動揺もないかのようだ。動じているのは自分だけだと気づき、胸のモヤモヤが更に膨らむ。
「…跡部さんは一緒じゃないの?」
「先ほど試合を終えたところで、シャワーに向かわれました。」
試合に勝ったのに、このとめどない苛立ちはなんだろう。どうしてこんなに俺は機嫌が悪いんだろう。
…。
「あんたさ、跡部さんを好きになったりはしないの?」
俺は一体、何を焦っているんだろう。
前に一瞬過った疑問。この人はきっちり仕事をこなしながらも最近まで恋人が存在した。いつも跡部さんの側にいて、距離が近くて。仕事上のパートナーであることは当然分かっている。でも、なぜか心が慌ただしくて落ち着かない。しかしこちらの気持ちを他所に。
ふわり。
彼女は綺麗に微笑み、答えた。
「なりません。」
キッパリと言い切ったその声は、まるで、それ以上の理由も言い訳も必要ないと言わんばかりの、確固たる口調だった。俺は彼女のその断言に言葉を失った。
ああ。
彼女の声が、波打つ心の内側の深いところにストンと落ちた。
こんな人に好きになってもらえたら、どんなに幸せだろう。
さっきまで目まぐるしかった感情が、スッと霧が晴れたようにクリアになった。
凜と伸びた背筋で仕事という戦場を駆け抜ける強くて脆いこの人に、「寂しい」だの「つまんない」だのと、馬鹿みたいな理由で泣かせた野郎は、一体どこのどいつだ。
返す言葉もなく、俺はロッカールームに引っ込んだ。彼女は最後まで笑っていた。ドアを閉め、汗で濡れたウェアを脱ぎながら、彼女のキッパリと断言したあの声が頭の中で反響していた。
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