つまらない恋の話
4.連絡先ウィンブルドンのトーナメント期間は、まるで時間が加速するかのように過ぎていった。観客のざわめき、選手たちの気迫。コートの緊張感が心地よかった。ボールを打ち込むたびに自分の世界に没入していった。しかしひとたびコートを出れば心のどこかが淡く疼く。
試合の合間の、人で混雑する選手エリアで。トレーナーからストレッチの指導を受けるジムのガラス扉で。一日を終えたホテルへの帰り道で。いつも気付けば彼女を探していた。大会が終われば次にいつ会えるか分からない。だから、連絡先を、聞きたい。
そう思い立つも、彼女を捕まえるのは簡単ではなかった。跡部さんのスケジュールに合わせて忙しなく動く彼女は、まるで影のようにすり抜けていく。
準決勝前の調整で、コーチと練習コートに入った。日差しが強く、目深にキャップを被った。コートの外からコーチがサーブのフォームの指示を出す。頷いてネットの向こうを見据えれば、その更に向こう。遠くに彼女の姿が見えた。コートに向かうところなのか、ウェア姿の跡部さんを追いかけている。見つけた、でも駄目だ、今は。タイミング悪く、やむなくテニスに向き合った。
こんなふうに誰かを追いかけたことなんて、なかったかもしれない。姿を見れば、ドキリとする。目を逸らされれば、無性にイライラする。こんな些細なことで心が揺れる自分に呆れながらも、どこか満たされている気がした。まるで、子供の恋愛みたいだ。
───恋愛?
次のボールをコートに打ち込んで、その打球の行方を見送ったとき、つい手が止まった。恋愛。散々呆れて、遠ざけて、もういらないと決めつけていたもの。でも彼女を思うと世界が急に色づいて見えた。コートの緑が、会場の喧騒が、汗の匂いさえ、いつもより鮮やかに感じる。ああ、俺、彼女に恋をしてるんだ。
ウィンブルドンの全試合が終わった。俺は決勝まで勝ち進み、準優勝の盾を手にしていた。コートでの戦いは終わり、選手エリアの活気も少しずつ落ち着き始めていた。
一方、跡部さんとは結局当たることなく、彼は準々決勝で敗退していたが、ウィンブルドンの出資企業としてその後も会場に残っていた。
俺は全試合を終え、シャワールームに向かっていた。少し時間を空けて会見が始まるのでそうゆっくりもしていられない。その道中、選手ラウンジの前を通りかかった。何気なく中を横目に覗けば、そこにはテーブルを囲んでミーティングをする跡部さんと彼女の姿があった。書類を広げタブレットに指を滑らせる彼女の横顔は、相変わらず凛としていた。やっと見つけた。俺は迷わずラウンジに入り、気付けば声をかけていた。
「話があるんだけど。」
「おい、こっちは仕事中だ。後にしろ。」
跡部さんは眉を上げてこちらを見た。その声にはいつもの尊大な響きがあった。でも俺は引かなかった。ここで捕まえなかったら、次いつ会えるか分からないのだから。テーブルに手を置き、彼女の顔を覗き込む。
「連絡先、教えて。」
彼女は一瞬、驚いたように瞬きをした。秘書の仮面の下で、素の表情が垣間見えた気がした。ほんの微かにその瞳が揺れ、頬が紅潮する。それだけで舞い上がってしまって俺の口角は勝手に上がった。
「お前なあ…。」
跡部さんはため息をつき、椅子から立ち上がった。
「…5分休憩だ。俺が戻ったらミーティングを再開する。」
そう言い残して、跡部さんはラウンジを出て行った。
二人きりになった空間は、妙に静かだった。彼女は視線を泳がせ、どこか落ち着かない様子でいた。
「で?教えてくれんの?」
先程まで跡部さんが座っていた椅子に腰掛け見つめると、彼女は押し黙った。しかし、やがて胸ポケットの内側から名刺を一枚取り出すと、彼女は流れるような筆跡で電話番号を書き加えた。
「プライベート用はこちらの番号ですので、何かございましたら。」
白くて細い指が、こちらに名刺を差し出した。
俺はそれを受け取り、印字された文字に目を落とした。
跡部財閥 秘書課 名字名前
俺はこのとき、初めて彼女の名前を知った。
「サンキュ。また会おうね。」
立ち上がり、手を振ってみせてラウンジを出た。名前、ね。彼女から受け取った名刺の淵をつうと指でなぞりながら歩くと、ラウンジを抜けた先の廊下で、跡部さんと鉢合わせた。
「どーも。」
名刺をひらりと掲げて笑ってみれば、跡部さんはまた呆れた顔を作った。
「…ったく。」
「止められると思ったんだけど、意外と寛大なんすね。」
その言葉に、跡部さんは鼻で笑った。
「止めるだと?俺が口出すまでもねえ。あいつが男をあしらう現場なんて見飽きてんだよ。」
そう言って、跡部さんはラウンジに戻っていく。そして背中を向けたまま、言った。
「あいつにあんな顔させたんだから、お前の勝ちだろ。」
その背中を見送って、名刺をポケットにしまいながら今度こそシャワールームへと向かった。あんな顔。彼女の、秘書の仮面の下の、素の表情。胸の高鳴りが止まらない。
次の日、俺は自宅のあるアメリカに戻った。夜、部屋で荷物を片付け、ふとポケットから取り出した名刺を手に、思いつきで名前に電話をかけてみた。
「…はい。」
数回のコールの後、澄んだ声がこちらを探るように応答した。
「俺。リョーマ。」
「越前さんでしたか。」
電話口の彼女の声がパッと明るくなった。たったそれだけのことに顔が緩んでしまう。
「今、電話平気?」
「ええ、大丈夫ですよ。日本に帰ったところで、今は自宅です。」
「そ。跡部さん出張多いでしょ。時差きついんじゃない?」
「最初は大変でしたけど、もう慣れました。」
電話越しの彼女の声は落ち着いていた。ウィンブルドンの会場で見かけた凛とした姿は、美しい思い出のように俺の胸に刻まれていた。そのときの声色より、ほんの少し柔らかいような気がする。
「本当にお電話をいただけるとは、思っていませんでした。」
「何。揶揄ってるとでも思った?」
「いえ、越前さんはお忙しい方でしょうから、こんなに早くご連絡いただけるとは正直意外でした。」
くすりと彼女は笑った。そりゃあ、まあ、確かに連絡とかはそんなにマメな方じゃないけど。でもさ、会場であんたのことどれだけ探したと思ってんの。連絡先聞けて嬉しかったんだから。
「…すみません、失礼なことを言いました。」
俺が何も言わずにいたので、名前は俺が機嫌を損ねたと思ったらしい。伺うようなその言い方に、誠実な人だなとまたひとつ感心をして、俺は小さく息を吐いた。
胸に帯びる、恋だという紛れもない自覚。
もう待ってなんかいられない。
「あのさ、」
いつも目で追っているだけだった彼女とこうして話ができると、欲張ってしまいたくなる。
もっと、この人のことを知ってみたい。
俺は、声を抑えて切り出した。
「もしまた会えたら、…そのときは俺と恋愛してくれる?」
跡部さんが言っていた、「あいつはここに仕事で来てる」と。きっとまた会えるのは名前にとっては仕事の現場。だけど、もっと色んな話をして、あんたがどんな人で、どんなことを考えてんのか、知りたい。
電話の向こうで僅かな沈黙が流れ、名前は言葉を選ぶようにゆっくりと溢した。
「…私、仕事ばかりでつまらない女です。」
その声は、静かだった。だがどこか俺を試すような響きがあった。上等。間髪入れず、俺は答える。
「それを言うなら、俺だってテニスばっかでつまんない男だよ。」
再び名前は沈黙するも、俺には確信があった。跡部さんが見飽きていると言うほどに、名前は軽口をあしらうのには慣れているはずだ。きっと嫌な時は嫌と言える人。だから、この沈黙は、悪いものじゃない。
「ま、考えておいてよ。次またどこかで会えたら、今度は目逸らさないでよね。」
窓の外を見る。こちらは夜で、空は暗い。名前のいるところは、今どんな天気なのだろう。
耳元で、名前の小さな声が聞こえた。
「…はい。」
その控えめな返事に、心が熱くなった。
いつかまた彼女に会えたら、今度はもっとたくさん話をしよう。仕事ばっかり、テニスばっかりの、つまらないお互いの話を笑いながらしよう。そんな未来を想像して、俺は電話を切った。
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