つまらない恋の話
5.いつものスーツ


秋の東京に涼やかな風が吹き、ジャパンオープンの季節が始まった。久しぶりの日本のコート。世界を転戦する日々の中で、日本に戻ることはどこか懐かしい安堵感をもたらした。でも今回の帰国にはもう一つ特別な理由がある。名字名前。
大会5日前、俺は彼女をディナーに誘った。


待ち合わせのレストランは、会場から少し離れた静かな一角にあった。夕暮れの光が窓に映り、街の灯りが揺れている。店の前で時計を確認したその時、彼女は現れた。仕事先から直接来たのだろう、スーツ姿で、艶髪をきっちりとまとめた、いつもの名前。俺を見つけるとふわりと笑って肩にかけていた鞄を下ろし、手に持ち直した。

「お待たせしました。」
「相変わらずスーツだね。」

思わず笑みが溢れた。きっと名前は毎日忙しい。仕事を切り上げて駆けつけてくれたことを想像して胸が温かくなった。

「すみません、もしかして着替えてから来るべきでしたか?」

申し訳なさそうに眉を下げるので手を横に振って見せれば名前はその表情を少しだけ緩めた。

「まあ、俺はデートのつもりだったからさ。でも、その姿のあんたを連れて歩けるのも悪くないけどね。」

口角を引き上げて見下ろすと彼女は困ったような顔をして髪を耳に掛け直した。
いつも跡部さんの背後に控える彼女を、今は自分が独占している。その事実は、うん。本当に、悪くない。

レストランに入りテーブルにつくと、彼女はスーツのジャケットを丁寧に脱ぎ、椅子の背に掛けた。白いカットソー姿になった彼女の、より鮮明になった肩の細さに無意識に視線を注いでしまう。彼女は気付かずメニューを手に穏やかに微笑んだ。

「越前さん、試合の準備はいかがですか?」

淀みなく、いつものように滑らかに響く彼女の声は仕事中の姿を一瞬彷彿とさせたが、どこか純粋な興味が込められている気もした。

「まあ、いつも通りかな。そっちは?大会の準備とか忙しいんじゃない?」
「そうですね。この時期は毎年大騒ぎです。ジャパンオープンは弊社にとって特別な大会ですから。」

ジャパンオープンは毎年跡部財閥がメイン協賛企業として出資している。グランドスラムに匹敵するほどの快適な選手環境は、跡部さんの手腕によるものだ。

「確かに跡部さん、毎年気合い入ってるよね。」
「…景吾さん、本当はプレイヤーとしてコートに立ちたいのだと思います。」

名前は静かにそう切り出した。視線はメニューに注がれている。その伏せた目のまま、彼女は続けた。

「選手として参加されるのはウィンブルドンだけと決めているようです。その他の大会は、その情熱を協賛の立場として注がれていらっしゃる。越前さんのことも、日頃からかなり気にかけていらして。」
「そうなの?」
「はい。景吾さんが越前さんに期待するのは、もちろんビジネスとしての側面もそうですが、景吾さん個人のテニスに対する思いを乗せているような気がします。」

私の主観ですけどね、と、名前は目を細めて笑った。彼女の声には跡部さんへの敬意と微かな緊張が混じる。それが二人の距離感を想像させた。彼女が主観と言うように、その言葉はあくまで彼女目線の推察。跡部さんなら壮大に夢を語ったりビジョンを共有したりしそうなものだけれど彼女にはそれをしないんだな。

ふと好奇心が湧く。彼女がこんな仕事をしている理由。いつも完璧に仕事をこなす彼女の、裏にある何か。

「ねえ。あんたはどうしてこの仕事してるの?」

こちらの質問に、名前はひとつ瞬きをして、考えるように視線を巡らた。しかしすぐに口元に微笑みを浮かべ、こう話し始めた。

「私、負けず嫌いなんです。」
「…負けず嫌い?」

意外なその言葉に思わず聞き返せば、彼女は頷いてみせて更に続けた。

「ええ。…実は、景吾さん、中学時代の先輩だったんです。ある日突然、『お前、俺様の秘書になれ』って言うんですよ。最初は、とんだ冗談だと思いました。」

名前は、クスッと笑い、遠くを見るような目をした。

「でも、景吾さん、しつこくて。何度も会いにきて、挙げ句の果てに『できねえと思ってビビってんのか?』なんて挑発してきたんです。それで、なんだかムキになってしまって。『できないなんて言ってない』って、つい意地になって、ここまで来ちゃいました。」

黙って話を聞きながら俺は彼女の目を見た。秘書と聞くと献身的なイメージが湧く。でも彼女は支えたいとか力になりたいとかそういう動機ではない。立ち振る舞いから感じる芯の強さの根源はここなんだ。
負けず嫌い、なるほどね。妙に納得がいった。

「へえ、跡部さんのケンカを買ったんだ。」
「そうですね。できないやつだと思われたくなくて只がむしゃらにやってきたのですが、気付けばこの仕事が好きになってました。」

名前の声はどこか誇らしげだった。俺は彼女の瞳に、ウィンブルドンで見たあの揺れる光を思い出す。彼女の努力を、プライドをかける仕事を、「つまらない」などと言われたその痛みを思う。しかも好きだったはずの人に。彼女はどれだけつらかっただろう。




ディナーの間、テニスの話や実家の猫の話、他愛のない世間話が続いた。どちらかともなく椅子を引き寄せ、テーブルに身を乗り出す。少しずつ、彼女のことを知っていく。こんな風にただ話しているだけでこんなに心が満たされるなんて、知らなかった。






数日後、ジャパンオープンの本戦が始まった。俺の初戦は昼前からで、早朝から屋外コートでアップをする予定になっていた。
東京は有明のハードコート。コーチの声が響き、ボールの音が耳に刻まれる。集中していたはずなのに、ふと視線の端に、意外な姿が飛び込んできた。フェンスの外側。

「…えっ」
一般の見物ギャラリーに紛れて、名前がそこにいた。いつものスーツではなくラフな私服姿そこに立つ彼女に、一度目を疑って思わず二度見をしてしまった。

「おい、リョーマ! よそ見すんな!」

コーチの怒鳴り声に、ハッと我に返る。ラケットを握り直すも視界の片隅に彼女の姿がちらつく。仕事中のスーツ姿が通り過ぎるのとは訳が違う。
しばらくしてコーチが休憩を言い渡す。ベンチに寄ってタオルだけ掴むと、俺は迷わずコートの端の姿に足を向けた。

「どうしたの? 今日、仕事は?」

柔らかなニットのワンピースという私服姿。髪はいつもきっちりまとめているのとは違って、軽くウェーブがかかって肩に落ちている。気のせいかもしれないけどメイクもなんだか雰囲気が違う。初めて見る彼女のそんな姿に、タオルで汗を拭くふりをして視線を誤魔化した。
名前は、柔らかく微笑んだ。

「お休みをいただきました。午前中だけですが。」
「休みなんて、よく取れたじゃん。」
「大会準備がひと段落しましたので。当日は意外と余裕があるんですよ。後ほど、試合も観戦しますね。」

その言葉に、ぶわっと体が熱くなった。貴重なオフを、彼女は自分に充ててくれたんだ。これは、自惚れていいんだろうか。その笑顔を見ながら、俺は試合への闘志とは別の、確かな昂ぶりを感じていた。

「…じゃ、いいとこ見せないとね。」

名前は目を細め、俺の知った彼女のそれらよりずっと自然な微笑みで、頷いた。


試合は、勝った。コートを後にする際に客席を見上げると、名前がいた。優しい顔でこちらを見つめ、静かに拍手をしていた。いつもの跡部さんの後ろに控える凛とした彼女とはまるで別人のようだった。

ロッカールームに戻ると、スマホにメッセージが届いていた。

「初戦突破おめでとうございます。越前さんの試合、とても胸が熱くなりました。素敵な時間をありがとうございました。」

丁寧な文面に、思わず笑みが溢れる。すぐに返信を打った。
「もう帰ったの?」
ほどなくして、返事が来た。
「午後から仕事ですので失礼します。またお会いできたら嬉しいです。」

社交辞令なのか、あしらわれたのか、よくわからない言葉だ。でも俺にはそれが彼女らしいと感じられた。近付いたと思えばまた遠くなる。そんな距離がなぜか心地よかった。






午後から仕事。そう言っていた通り、その後選手エリアの片隅で名前を見かけた。俺はコーチ陣と試合のフィードバックを終えて会場を出るところだった。跡部さんの後ろを歩く、髪をまとめたスーツ姿の名前。

あの後わざわざ着替えたんだ。どうせここにまた戻るのだから朝からスーツで来ればよかったのに。そこまで考えて、思い当たる。そうか。先日ディナーに誘ったとき、俺は彼女に言ったんだ、「相変わらずスーツだね」と。もしかして。彼女はデートのつもりでワンピースを着てくれたのかな。

遠くの彼女が、俺に気付いてこちらを見る。目が、合う。仕事モードの綺麗な笑顔を貼り付けて、彼女は俺に会釈をした。俺はひらりと手を上げ笑ってみせる。
ああ、本当に綺麗だ。
完全に俺は名字名前に惚れ込んでしまっていた。


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