つまらない恋の話
6.仕事の話


ジャパンオープンが終わったその翌月、今年のツアーの全日程が終了し、シーズンオフに突入した。

冬の東京は、冷たく澄んだ空気が街を包んでいた。俺は日本に帰国し、跡部財閥が提供するトレーニング施設に通っていた。室内コートや最新設備のジムが揃うこの施設は、プロ選手にとって理想的な環境だった。室内コートから響くボールの音がジムのガラス越しに届く中、俺は黙々とトレーニングに励んでいた。オフとはいえ、テニスは俺の全てだった。年明けからまた新しいシーズンが始まる。再びコートに立つ日に向け、自分の体と向き合っていた。

ある日、ジムのトレッドミルで汗を流していると、ガラス張りのドアが静かに開き、名前が入ってきた。スーツ姿にバインダーを抱え、いつものように背筋を伸ばした彼女。冬の陽光が窓から差し込み、彼女の艶髪に柔らかな光が反射する。その視線がすうと室内を巡り、他の選手たちと目が合っては静かにお辞儀をしていた。そしてその視線はやがてこちらにとまり、名前は俺の方へとやってきた。高鳴る気持ちを抑え、俺はトレッドミルを止めてタオルを被った。

「お話、いいですか?」
名前は、穏やかに微笑みながら声をかけてきた。どちらだろうと一瞬疑問がよぎる。仕事か、仕事じゃないか。でもそんなの些細なことだと自分に言い聞かせる。だって会えただけで嬉しくて、それだけでいいじゃないか。

仕事モードに見える、いつもの名前。でもその笑顔にはジャパンオープンで見た柔らかな表情がほんの少し混じっている気もした。

「久しぶりだね。」
そう投げかけると、名前は口元に小さく弧を描いて応えた。

「調整、いかがですか? お困りのことはありませんか?」
「さすが跡部さんのとこの設備だよね。色々揃ってて助かってるよ。」
「恐縮です。」

名前は軽く頭を下げ、そしてバインダーに目を落とした。

「…まあ、ケータリングの時間がもう少し幅あるといいかなとは思うけどね。」
「そうですよね。確かに現状、少々タイトな時間設定かもしれません。ご意見ありがとうございます。上に申し伝えますね。」

名前は、サラサラとペンを走らせ、メモを取った。その流れるような動作につい見惚れていると、名前は深く礼をして立ち去ろうとしたのだった。は?
名前はあっさりと背中を向けるので、呆気に取られてしまった。
仕事の話、だけ?

「ねえ。」
思わず引き止めた。名前は振り返り、小さく首を傾げる。ジャパンオープンでのディナー、観客席での彼女の笑顔。あの時、確かに近付いた気がしたのに、今、彼女はまた秘書の仮面を被っている。

「…はい?」
「久しぶりに会えたんだから、もっと…仕事じゃない話がしたいんだけど。」

そんなつもりはなかったけれど声に不満が混じり、そのとき名前の瞳が微かに揺れた。まるでウィンブルドンの通路で見た、あの涙を浮かべた表情のように。彼女は目を伏せ、しかしすぐに口元に無理やり微笑みを貼り付けた。

「…すみません。」

小さくそう言って名前はもう一度丁寧に腰を折ると、近くにいた他の選手に話しかけに行ってしまった。

俺は呆然とその背中を見つめ、ハッと息を呑む。しまった。彼女のあの悲しそうな目。ようやく自分の言葉の愚かさに気付いた。いつか彼女が自嘲していた言葉が頭に響く。「仕事ばかりでつまらない」。俺ならそんなこと言わない、そう思っていたはずなのに。今、自分がしたことは、まさにその言葉を突きつけたのも同然だった。

冷や汗が滲み、ジムの空気を急に重く感じた。トレーニング機器のモーター音や人の笑い声が遠くに聞こえる。名前は他の選手に、俺にしたのと同じように話を聞いてはバインダーに筆を走らせる。でも、一番に俺のところに話を聞きにきてくれたんだ、ああ、もう心がぐちゃぐちゃだ。



ジムのガラスドアが静かに閉まる音が耳に届いた。名前の背中が、遠ざかっていく。
後悔を噛み締めている場合ではない。タオルをトレッドミルの脇に放り投げ、咄嗟に追いかけた。彼女のことをもっと知りたかった。彼女の笑顔をもっと見たかった。それなのに、こんな風に彼女を傷付けてしまった。

名前の足音が、トレーニング施設の硬い床に反響する。

恋愛なんて、いつもよくわからなかった。
好きだと言われ、テニスが一番だと正直に伝えると「それでもいい」とみんな最初は微笑んだ。なのにいつも最後にはガッカリした顔で突き放され、いつの間にか終わっている。その繰り返しだった。知ってたのに。俺だってそれがどれだけ虚しくて悔しくてつらいものか、知ってたはずなのに。

これじゃあ今まで俺を否定した過去の恋人たちと、名前を泣かせた男と、何も変わらないじゃないか。

こんな風に、誰かを離したくなくて、傷付けることが怖いと思ったのは初めてだった。そして、こんな時にどうすればいいのか、まるでわからない。
それでもただ一つ分かるのは、あんな悲しそうな顔をさせて放っておくなんて、絶対にダメだということ。

トレーニング施設の通路は乾燥した空気が漂い、蛍光灯の白い光が無機質に床を照らしていた。名前の背中はすでに遠く、角を曲がろうとしている。

「名前!」
名前を呼んだ瞬間、彼女の肩が跳ね、驚いたようにこちらを振り返った。その瞳が思い出したようにまた揺れ、すぐにいつもの笑顔を貼り付ける。仕事モードの、完璧な秘書の微笑み。それでも分かる。その笑顔の裏に、名前の脆さが透けている。

いたたまれなくなった。考えるより先に、彼女の肩を抱えて引き寄せた。強く抱きしめると細い体が腕の中で強張った。遠くで、スタッフの話し声が聞こえる。ここは跡部財閥の施設。こんな場所でこんなことをするのは彼女にとってどれほど不適切か、頭ではわかっていた。でも、離せなかった。

「…やめてください。」
名前の声は小さく、震えていた。その腕は応えることなくバインダーを握りしめている。彼女を強く抱きしめ、俺は喉の奥から言葉を絞り出す。

「ごめん。…酷いこと言って、ごめん。」
声が情けなくも掠れてしまった。名前にとって、仕事は大事なものなのに。俺、自分のことばっか考えて、嫌な言い方をした。

名前は、首を振った。
その手が伸び、躊躇いがちにこちらの胸を押す。

「越前さんだけには、ガッカリされたくなかった、です。」

その声は、今にも泣きそうに頼りなく響いた。彼女は一歩足を引き、顔を下げた。その瞳に光るものが見えて胸が締め付けられた。

「違う、そういう意味で言ったんじゃなくて、」

必死に言葉を紡ごうとした瞬間、遠くから足音が近付いてきた。名前はまた数歩後ろに下がり俺から距離を取る。まるでその靴の音が誰のものであるか知っているかのようだった。彼女は必死に笑顔を貼り付け、俺を見た。その瞳は、明らかに揺れていた。

「ごめんなさい。…もう、会いたくない。」

名前は涙を呑み込み、背を向けた。俺は頭が真っ白になった。

彼女に振り払われた手が、行き場を失って宙を彷徨う。
角を曲がってきたのは跡部さんだった。スーツ姿の彼は、いつもの尊大な雰囲気を纏いながら名前に声をかけた。

「ヒアリング終わったか? 行くぞ。」
「はい。」

名前の声は澄んでいた。まるで、今の出来事がなかったかのように。彼女は背筋を伸ばし、跡部さんの後を追った。

跡部さんは一瞬、こちらに鋭い視線を投げた。その目は見透かすように俺を見たが、しかし何も言わず、前だけ見据えて歩いていく。二人の背中が通路の奥に消えていき、俺だけがそこに立ち尽くした。




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