つまらない恋の話
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跡部と名前が初めて一線を超えたのは、名前が専属秘書になり一年が経った頃だった。それはパリの夜、客先の接待があった日だった。



パリの夜は、華やかで、どこか静かだった。エッフェル塔の遠景が夜空に溶ける高級ホテルの一角。貸し切られたレストランの個室は、緊張の糸が張り詰めていた。

今夜、跡部と名前は財閥の重要な客先の接待に臨んでいた。目の前のこの巨額の金を動かす大物は、気難しいで有名な客だ。雑談の端々に新たな商材やキーマンの名前、今後の展開のヒントが散りばめられていた。跡部は、普段の尊大で華やかな態度は抑え、穏やかな笑顔で応じていた。相手のペースに合わせ酒を飲み、その笑顔の下で鋭く言葉を拾っては取りこぼさぬよう脳に刻んでいた。隣に座る名前も、手帳を出すことすら憚られる空気の中、涼しい顔で微笑みを貼り付け、相手をもてなした。

会食が終わり、高級車が客先を乗せて去っていくのを、二人はホテルのエントランスで見送った。車のテールライトがパリの夜道に消えていく。

跡部は額を手で覆い、重いため息をついた。客先の姿が見えなくなったことで、ふっと視界が揺れたのだった。跡部は酒の席には慣れていたが、弱くはなくとも特別強いというわけでもなかった。

「…大丈夫ですか?」
「悪い、気ィ抜いたら酔いが回った。」

跡部は髪をかきあげると、名前を振り返った。

「話、忘れねえ内に少しまとめるか。」
「ご無理をされない方が…」
「いや早い方がいい。記憶が新鮮なうちに要点だけでも書き出しておきてえ。」
「でしたら、お部屋に伺います。」

心配そうな、それでいて真っ直ぐなその瞳が跡部を見上げた。言葉に詰まった。パリの煌びやかな夜の街。回る視界の中でその目だけが跡部の胸に刺さった。


上昇するエレベーターの中で、跡部は隣に立つ名前を横目に見た。中学時代、彼女は一つ下の後輩だった。文武両道。勉強も部活もいつも真剣で、負けず嫌いな目が光っていた。生意気な口をききながら、でもどこか純粋だった。「お前、俺様の秘書になれ」そう言い放ったのは半ば冗談だった。「できないなんて言ってない」と反発する強い瞳に、跡部は本気になった。あの負けず嫌いな少女が今こうしてそばにいる。


部屋に入ると、厳かに佇む大きなベッドと目が合った。しかし二人は気にしない素振りで部屋の奥へと進んだ。

デスクの上に名前が鞄を下ろしたとき、二人は示し合わせたわけでもなく、偶然同時にスーツのジャケットに手をかけた。ただ会食で凝った肩と、酒で火照った熱を解放したかったからだ。はたと目が合って、二人はふいと視線を逸らした。跡部はそのまま腕を抜いてワイシャツ姿になったが、名前は肘まで下ろしたジャケットをさりげなく引いてまた肩に掛け直した。

「議事録の形式でよろしいでしょうか。それとも相手先への提出を急ぐようでしたらプレゼン資料として作成しますが。」

名前は椅子に座るとテーブルにパソコンを開き、跡部を見上げた。そのいつもの調子に、跡部は浮つきかけていた気持ちを締め直した。

「ああ。提出用から先に取り掛かってくれ。さっきの話、ポイントは掴んだな?」
「はい。商材の拡張性と、相手が重視するコスト効率ですね。」

跡部は頷き、正面の椅子に腰掛けた。二人は仕事モードに入り、資料をまとめ始めた。
跡部は書類をめくり、要点を口にする。名前はそれをパソコンに打ち込み、時折画面を跡部に見せて確認をとる。二人の動きは一年間の仕事で培ったリズムそのものだ。紙を捌く音、キーボードを叩く音が、静かな部屋に響いた。

文字を打ち続ける中、名前は珍しく何度もタイプミスをした。跡部は何気なくバックスペースを連打する指を眺めていると、名前は視線に気付き、「すみません、私も少し酔っています」と静かに言った。
たったそれだけのことに跡部の心はざわつき、その姿が途端に無防備に見え始めた。

会食の席で、客先が名前を褒めた。「綺麗な女性ですね」「さすが跡部財閥の秘書」と。確かにはたから見ればきっと彼女は魅力的だ。整った顔、艶やかな髪、凛とした表情。だが、跡部にとっての名字名前はただの秘書ではない。あの負けず嫌いな瞳。中学時代から知る、意地っ張りで、どこか脆い女。仕事では完璧なのに、ふとした瞬間に見せる隙。

跡部の視線は無意識に彼女の白くて細い指、まとめた髪と首筋、タイトなスーツとその曲線に吸い寄せられた。不要な劣情が湧く。



会食でのヒントから得たアイデアを思いつく限りアウトプットし、今できる精一杯のことはした。名前の差し出す画面の文字を最後に一度読み返す。明日の朝、酒から醒めたクリアな頭でもう一度精査する必要はあるが、叩き台はこれで完成した。

「…こんなもんだろ。今日はここまででいい。ご苦労。」
「はい。お疲れ様でした。」

跡部は背もたれに体を預け、ネクタイを緩めた。名前はパソコンを閉じ、書類をまとめ始める。トンと机に資料の束を立てて几帳面に角を揃え、ファイルに差し込んだ。片付けを終えた彼女の手が鞄を手に取った。しかし。手際よくこれまで動いていた名前だったが、鞄の持ち手を握ったまま何故かその場で立ち尽くしてしまった。

跡部は窓の外を見ながら呟く。
「何してる。明日も早い。」
そうとは言いながら何故か「帰れ」とは言えなかった。

長い沈黙が、部屋を包む。緊迫感と、甘い期待が漂う。お互いに恋人がいるのかは知らない。プライベートの話をしないからだ。業務時間外で顔を合わせても仕事の延長としての緊張と距離を保つ。取り決めてそうしているのではない。ただ、プロフェッショナルでありたいと思う。共にビジネスの世界を駆け抜ける中で自然と今の関係が築かれていったのだった。

中学時代からの付き合いと、一年間の仕事で築いた信頼が、仕事に一切の私情を漏らさないことを証明していた。そして、きっと割り切った関係を保てることもまた、証明していた。今夜、酒の余韻と、異国の夜の雰囲気が、二人の理性を揺さぶる。

「…………」

どちらかともなく顔を上げ、視線が交錯する。跡部はゆっくりと立ち上がり、名前に近付いた。彼女の握る鞄をそっと下ろさせ、顎を持ち上げる。名前は顔色を変えずに見つめ返した。しかしその瞳はどこか探るような光を宿している。こんなときにも表情を変えないなんて、と跡部は感心した。その指が彼女の輪郭をなぞる。言葉なく、跡部は唇を寄せた。名前は、目を閉じ、応えた。



肩を押し、名前の体をベッドに倒した。抵抗なくマットレスに沈み込んだ名前は、しかし目線を部屋の角に向けていた。跡部は探るように名前の体に触れた。次第に呼吸が早まり確かな反応を見せるも、彼女は口を隠して声を呑み込んでいた。
逃げるわけでも、拒むわけでもない。跡部の腕が体を引き寄せても名前のその指は枕やシーツを手繰り寄せるばかりだった。

そんな名前の態度に、跡部は興醒めするどころか、安堵さえ感じていた。これも仕事の延長だと言わんばかりの感情を漏らさない名前の態度に、このとき跡部は確かに救われていた。

過ちだった。秘書である彼女をそんな目で見た失敗を、酒のせいにした卑怯さを、跡部は絶望した。しかし彼女は、低俗な男にはさせないとでも言うように、割り切った関係であろうと判断したのだった。吊し上げることもできただろうに。
跡部は、自身のプライドを理解し守ろうとする彼女の誠意に、心が震えていた。


余裕がなくなっていく。跡部は鼓動を早めながら、顔を隠した細腕の間から覗く、名前の眉間の皺が深く刻まれていく様を見ていた。


跡部は思う。もしかするとそんな献身ではなく、彼女にも俺を受け入れた個人的な理由があるのかもしれない、と。心の欠けた部分を埋めるような、そんな動機が。
しかしそれを明かすことなく、彼女は顔を隠し、ただ体の内側にだけ集中するように身を委ねていた。平然を装い、決して縋ることなく、しかし事実として、体は確実に繋がっていた。





あれから二人は何度も出張先のホテルで夜を共にし、いつしかそれは仕事の延長線上にあるルーティンの一つになった。

この関係を辞めないのは、あの日一線を超えたことを誤りだと認めたくないからだ。自分が、相手が、間違っていると認めたくないからだ。


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