つまらない恋の話
¬3


跡部と名前の関係はあの日から二年続いた。初めは好奇心にも似た一夜の営みだった。しかし日を追うごとにそれは二人の「利害の一致による協定」と呼べるまでに形を変えた。





名字名前は仕事に誇りを持っていた。跡部財閥の秘書とは多忙で、何より重い責任とプレッシャーがあった。それでもこの仕事が好きだった。しかし好きなものを好きで居続けるのは体力がいる。ふとしたときに感じる心の隙間。仕事ばかりの生活。こんな自分を必死に肯定するも、時々不安になる。だから誰かに認めて欲しくて、こんな自分を好きになって欲しくて、時々恋愛をした。でもこんな自分だから、うまくいかない。

隙間を埋めるように、名前は跡部との夜に没頭した。仕事の一部だと思えば罪悪感も少し遠く思えた。



また跡部にもここへ逃げる口実があった。
財閥、テニス、家の事情。跡部には抱えるたくさんのものがあり、背中にいつも重圧を感じていた。しかし表ではそれを誇りと呼んでみせ、晴れやかな顔を作り胸を張って生きていた。

名前とのこの時間は、そんな現実から目を背けるかのようなものだった。目先の欲だけに溺れるこの時だけはプレッシャーを脱ぐことができた。
現実からの逃避、弱音を吐くような、そんな行為だった。名前が最中に顔を隠す事はそういった意味でも跡部にとって都合が良かった。



互いの欲を満たし、ストレスを解消し、悩みを一時忘れ、また次の日から完璧な自分であれる。この関係は正しくはないが意味はあった。ここに心はないが、確実に精神の逃げ場として機能していた。

重圧と孤独を分けてぶつけ合う、まるで執着を思わせる行為はどこか歪つな形をしていて、それでいて完全たるものだった。恋愛感情を徹底的に排除することでこの関係は成立し、そして安定さえしていた。




秘めやかに継続した二年間の関係の日々に、ひとつの転機が訪れた。

ウィンブルドンの日々は名前の心を忙しなく揺れ動かした。ウィンブルドン選手権は跡部が一年間で唯一コートに立つ大会だ。
プロ選手ではない跡部はワイルドカード枠に入る必要があった。通常はランキングの上位から順に出場枠を埋めていくものだが、ワイルドカードとはいわゆる推薦枠といったもので、ランキングを持たない跡部はこれを狙っていた。

この日のために財閥は選手への援助など様々な角度からテニス界に恩を売り、ウィンブルドンにも出資した。コネとは初めから有るものではなく作るものだ。名前はそのサポートのため激務をこなし、無事跡部がコートに立つことを今年も叶え胸を撫で下ろしたのも束の間、恋人から突然の連絡。「また出張?もういいよ。お前って本当、仕事ばっかでつまんないね。」

一つの恋が終わったとき、名前の元に彗星の如く現れた一つの光。
越前リョーマ。跡部財閥が支援する、世界3位のトッププロ。

彼もまた恋愛に痛みを抱えていた。それを知ったとき名前は彼に対する見方が180度変わった。いつも強く光る目で前だけを見ているような彼が、テニスばかりであるゆえに傷付けられた過去を持っていた。同じだ、と名前は思った。

連絡先を聞いてくれた。恋愛したいと言ってくれた。こんな人と恋ができたならと想像する。彼となら、もしかしたら。名前は少しずつ心を寄せていった。




まもなくジャパンオープンが始まる、その日跡部と名前は関西地方の出張先にいた。とあるスポーツメーカーとの会食を終えたばかりの夜。跡部の泊まるホテルのスイートルームに、二人はいた。

名前は手帳を手に、スケジュールを確認しながらいつものように淡々と報告する。
「明日のフライトは午前10時です。東京到着後、ジャパンオープンの会場入りとなります。」

跡部は頷き、バーカウンターでシャンパングラスを取り出す。アルマンドの栓を抜き炭酸の弾ける音を聞きながら、先程の酒に酔ったメーカーの営業が口走った言葉を思い出す。
『名字さん、この後もう一軒どうですか、…よかったら、僕と二人で。』
男は顔を真っ赤にして名前の腕を引いた。名前はいつものように、「いつかまたご縁があれば、ぜひご一緒させてください。」と美しく口角を上げて遮断した。相手は気まずそうに笑って誤魔化し、引き下がった。



「どうかされました?」
名前はスーツのジャケットを脱ぎ、皺が寄らぬようハンガーにかけながら跡部を振り返った。つい今まで打ち合わせをしていたデスクを見れば、手帳やタブレットは既に片付けられていた。この先に起こることを焦らしも恥じらいもせず、まるでこの時間もスケジュールに組み込まれているかのようにその動きは淡々としていた。

「いや。あの営業、いい根性してやがると思ってな。」
「かなり酔っていらしたようでしたから、そうおっしゃらないでください。」
「フッ。今夜は俺とでよかったのか?」
「私だって相手は選びます。」

名前は静かにベッドに腰掛け視線を落とした。
跡部はカーテンを引き、大阪の街明かりを閉ざした。





名前の肌は白く薄かった。少しばかり吸うだけで簡単に赤い痕がつく。だが、印を付け合うような関係ではない。跡部は痕をつけぬよう慎重に名前に触れ、名前もまた爪で跡部の肌を掻かないようにその手はいつもシーツや枕を握っていた。

ベッドの上で互いの息が上がっていく。
跡部は名前に後ろを向かせ、責め立てた。
名前は跡部との行為の中でもこの体位のときは幾分か気が楽だった。これなら顔を見せずに済むからだ。目の前のシーツを握りしめて瞼を閉じ、感覚にだけ集中していた。迫り上がる衝動に頭の中を白く染めていると、突然後ろから腕を引かれた。体を起こされ、名前の背がしなる。膝で立つ。手綱を引かれるような跡部の支配に身を委ね、ぼんやりと壁を眺めた。

二人は痕跡を残さない。肌にも、心にも。

激しく打ち付けられる跡部の熱を受け入れながら、名前の脳裏には唐突に越前リョーマの姿が浮かんだ。柔らかな黒髪から覗く力強い目。不器用でそれでいて真っ直ぐな言葉。あんな人に好きになってもらえたら。しかし迫り来る衝動に、その胸の疼きも煙のように霞んでいく。






時間が過ぎる。体温を上げ切った跡部は、いつものようにすぐに名前の体を解放し、離れた。

乱れた息を抑えながら、名前は跡部に言い忘れていたことを思い出した。シャワールームに姿を消そうとするその背中に問い分ける。

「あの」
「…なんだ。」

跡部の声には警戒が孕んでいた。行為の後、二人は余韻に浸らない。いつもなら言葉を交わすこともない。

振り返ったとき、跡部は目に飛び込んできた情景に息を止めた。シーツの乱れたベッドの端に横たわり、髪を乱し肌を赤くさせて、こちらを見ている名前の姿。

先ほどあれほどの距離で汗を混ぜ合ったというのに、ベッドに残された無防備な姿を俯瞰で見て跡部は柄にもなく動揺した。目のやり場を失い、視線を泳がせる。そして不自然に背を向けた。

明日二人は東京に戻り、ジャパンオープンの会場入りの予定だ。行為中、名前はリョーマのことを思い出していた。ウィンブルドン以来会っていなかったが、久しぶりに彼から連絡が来ていたのだった。

「明日、会場から直帰させていただきたいのですが。」
「構わないが、…珍しいな。」

そう返した跡部もまた珍しかった。名前の打診は、恐らく退勤後に何か予定があるからだ。プライベートのことだ。理由を尋ねるとは、普段の跡部ならそうしないことだった。

「はい。食事の約束が。」

体を起こして、名前はそう答えた。どこか温かみを含む声色に、跡部はその顔を盗み見て全てを察した。
跡部は名前の私情は多くは知らない。恋人の存在や、今日みたいに仕事のつながりで出会った男との、その後の話も知らない。名前は跡部にそれらを語らない。仕事の話じゃないからだ。
しかし名前はこれを跡部に話した。

「越前か。」

跡部はストレートに尋ねた。名前は否定せず、静かに微笑んだ。その表情をとらえ、跡部はそっと視線を外した。

「…直帰の件、許可する。」

跡部は今度こそシャワールームへと姿を消した。

「ありがとうございます。」

残された部屋で見えなくなった背中に呟き、名前はブラウスを手に取ってベッドから降りた。


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