ディア・プランビー
12.水槽高校最後の冬のことだった。
ある日の放課後、廊下が騒がしい。不思議に思っていると同じクラスの海堂くんが「おい」と声をかけてきた。
「どうしたの?」
「あいつが来てる。囲われてるみてえだが放っといていいのか?」
「あいつって…?」
海堂くんがいつもの仏頂面で教室を出て行く。まさか。いやそんな。胸騒ぎを抑えながら慌てて追いかけると海堂くんは眉間に皺を寄せながらも「こっちだ」と私を手招きした。廊下の窓から見える校門に、やけに人が集まっている。あそこに?いるの?靴を履き替え外に出れば、やはり校門の辺りにはたくさんの生徒が集まっていた。そして誰もがその中心にカメラを向けている。その光景に海堂くんは舌打ちをした。
「バカが。目立つに決まってんだろうが。お前が呼んだのか?」
「まさか。」
「だろうな。ったく…。」
輪の中心にいるのはリョーマだった。そして思い当たる。そうか、もうこの季節が来たんだ。ツアーが終わり、オフになったリョーマがようやく日本に帰ってきたんだ。困ったように人混みをあしらうリョーマは、私を見つけてきらりと目を光らせた。その口が開き、今にも名前を呼ぶ、そのとき後ろから軽快な足音と、「越前ー!」という元気な声。桃だ。
「待たせたな!悪い悪い!さあ行こうぜー」
「えっ、ちょっと桃先輩…っ」
桃は一瞬こちらに目配せして、リョーマの肩を抱いて人混みから連れ去った。海堂くんはホッとしたような顔を見せたけれどすぐにいつもの怖い顔に戻り「行くぞ」と私に言う。海堂くんは桃とリョーマが向かったところまで一緒に行ってくれた。ぶっきらぼうだけど彼の思いやりが伝わってくる。
ようやく桃たちに追いつくと、ひとけのないところまで引きずられたらしいリョーマは桃に説教をされていた。
「お前なあ…もっと自分の立場を自覚しろって。青学じゃあお前を知らない奴はいないんだからな。」
「立場も何も、彼女迎えに来ただけじゃん。」
「わかるけどよお。…お、海堂。悪いな。」
「俺は戻る。」
「ありがとう、海堂くん、…わっ」
リョーマは私の顔を見るなり大股でやってきてぐいと肩に腕を回し私を抱き寄せた。リョーマに悪気はない。サプライズのつもりもない。日本に帰ったから真っ直ぐに私のところへ来てくれた。それだけ。それだけのことが、ままならない。
「…。」
「会いに来てくれてありがとう、嬉しい。」
そう伝えて背中を撫でる。顔を覗き込むとリョーマはまだ少し不貞腐れたような顔をしていた。
「んじゃ、俺も行くわ。お前ら気いつけて帰れよ。」
飄々と笑って桃も校舎へと戻って行った。海堂くんも桃も部活に向かったのだろう。引退後も二人はたまに部に顔を出していた。
リョーマは高校に在籍していないからそこに混ざることはない。彼のコートはここではない。そんな「もしも」もあったのかもしれないなと時々考えるけれど、彼が選んだ今を否定も疑いもするべきではない。
どうやらリョーマは空港からそのまま来たらしく、大きな荷物を連れていた。ひとつ持つよと肩にかけていたダッフルバッグに手を伸ばすと、「平気」と言う。「じゃあラケットを」と言えば「これも重いよ。ラケットだけじゃなくて隙間にガットとか色々詰めてるから」と首を振る。
「試しに持ってみてもいい?」
「いいけど、持てる?」
「うん!」
リョーマは肩にかけていたダッフルバッグを私の肩に手を添えながらそっとかけた。
「…え、ごめん!リョーマ!無理かも!」
ずしりとのしかかるあまりの重さによろけてしまいそうになって、情けなくもすぐに助けを求めることになってしまった。
リョーマはやっと笑ってくれた。
「ね、言ったでしょ。」
「こんなにたくさん何入ってるの…」
「コートで要るもの全部。あと体重計とかね。」
「それも自分で持ってくの?」
「毎朝栄養士に体重報告してんだよね。」
そんな雑談を交わしながら帰り道を行く。じゃあこれだけお願い、とスーツケースだけ託されて、その空いた手を私の指に絡めて歩く。リョーマはオフでしばらく日本にいる。私ももう少しで冬休み。せっかくだからどこかに出掛けたいなと思うけれど、先ほどの人に囲われた光景を思うと躊躇もしてしまう。
リョーマが日本にいる間の放課後は、家に帰る前に裏の寺に寄った。住職は南次郎さんから私の父に戻ったけれど、コートは変わらずそこにあった。プロに転向してからのリョーマはジムが併設されているような立派な練習施設でトレーニングするようになって、それでも夕方にはここに来てボールを打っていた。
ボールの音が響く中、石階段を上がれば私の足音に気付いたのかリョーマは手を止めてこちらを振り返った。「ただいま」「おかえり」なんて挨拶を交わして、そして一緒にベンチに座って少し話をする。学校であった出来事、昨日見た夢の話、昔の思い出なんかを静かに交わす。ここは人目がないから落ち着いて話ができた。これでいいと思う。私はこれだけで十分幸せで、満たされている。
でも今日突然リョーマがこんなことを言い出した。「デートしようよ」と。デート。リョーマはとても目立つ。青学で囲われてしまったのは、かつて中等部に在籍していた有名人だから、だけではない。若くして世界で活躍するアスリートだから。それもある。それより何よりリョーマは、その容姿がとても目立つのだった。小柄だった彼の身長はみるみる伸びて、気付けば背が高くなっていた。大きな背中、力強い腕、長い足。それでいて小さな顔に大きな目。綺麗で柔らかな黒髪。もしかしたら越前リョーマを知らない人も、すれ違えばその魅力的な外見に振り返ってしまう。リョーマはそんな人だった。
そんな今の彼とデート。
「どんなことがしてみたい?できるかどうかは置いておいて。」
リョーマはテニスボールを手元で弄びながら言う。急な提案に、前に聞いたクラスメイトの恋話を思い出すなどする。彼氏とどこに行ってきたとか、そういう話。確か友達はなんと言っていたか。
「うーん…デートらしい、って意味で言えば、水族館とか映画とか?ベタだけど楽しそうだよね。」
「じゃあまずは水族館ね。明日空いてる?」
「空いてるけど、え、本当に?」
明日は土曜日。学校は休みだし予定もない。
「決まり。」
リョーマは口角を上げて私を振り返り「帰ろう。」と言う。私を私の家まで送ると「明日迎えにくるから」と言って隣の家へと帰って行った。
翌日リョーマは約束通り私を迎えにきて、行こうと手を引いた。駅に向かい電車に乗ると言うので大丈夫かなと思えば、歩きながらポケットからマスクを取り出してつけ、そして細身のフレームの伊達メガネを掛けた。「デート邪魔されたくないからね」と拗ねているのか照れ隠しなのか微妙な声色で言う。隠れてしまった口元にその表情は分かりづらくなってしまったけれど機嫌が悪いわけではなさそうだ。
土曜日なので街は混んでいて、リョーマに手を引かれて歩いているのは不思議な気分だった。リョーマはツアーが始まってしまえばほとんど日本には帰ってこなかったし、改まって出かける機会は滅多にない。もっと自由が効くうちにたくさん色んなところに行くべきだったのかもしれないし、でも私はテニスに向き合うリョーマを大切にしたかったからそこは特別求めていなかった。でも今回リョーマは私を連れ出してくれた。きっとこの先テニスを続けるほどに彼の名前は大きくなる。これが最後だなんて大袈裟だけど、眼鏡やマスクなんか意味がなくなるくらい顔を指される日がきっとくる。
この先私がリョーマと一緒にいる方法は、私の世界にリョーマが合わせてくれるのではなくて、私がリョーマの世界に飛び込むこと。その方がずっと現実的で、リョーマにとってはきっとその方がいい。そうと分かってはいながらも、思い切れない自分もいる。
彼がプロになってから漠然と考えていた。世界で戦うリョーマに、私が会いに行きたい、と。でも海を渡るということは簡単なことではない。リョーマは慣れたようにどこへでも飛んでいくけれど、私にとっては日本の県を跨ぐことすら大冒険に思えてしまう。何より、それを実現するにはお金が必要だ。そして融通の利く時間と環境。リョーマがいつまでもコートの最前線にいる保証などない。
水族館へ着き、薄暗い館内でひとつひとつ水槽を見て回った。鮮やかな熱帯魚、愛嬌のある顔をした深海魚、ゆったり動く古代魚に殻の透けた甲殻類。リョーマの色素の薄い瞳に水槽の青が映って綺麗だった。そして大きなメイン水槽が見えてきた。大小様々な生き物たち。イワシの群れがキラキラと泳ぎ、巨大なサメが悠々と進む。その水槽の前に私たちは立ち、見上げた。
魚の動きを、自由でいいなあとぼんやり眺めてみたりして、でも自由ってなんだろうとも考える。この魚たちは伸び伸びと泳いでいるように見えて、自然とは切り離された檻の中で生きている。それが案外幸せそうにも見える。ここは守られて安全だから。
物思いにふけっていると、リョーマがふと口を開いた。
「名前、来年何するの?大学?」
その声に、胸が少しギュッとした。自分の幸せが何かなんて分からない、自信がない。リョーマがただいてくれればいいと思う。だから本当なら大人しく安全な場所で静かに彼を待っていればいいのだと思う。
でも決めたんだ。
「…私ね、青学の大学には上がらないの。」
横目にリョーマを見上げれば、水槽を見上げながら黙って私の話を聞いていた。
「平日は跡部さんのところで働こうと思って、だから大学は通信制のところに行くの。」
「そう…」
小さな相槌と、そして「なんで働くの」とぽつりと声が落ちてくる。
「働くというか、インターンだよ。ちょっとやりたいことがあって、まあ、お小遣い稼ぎかな。」
最初は普通の大学に通いながら何かバイトでもしようと思っていた。でもそれで海外遠征にいけるほどのお金を、リョーマが現役のうちに貯められるかと言われたら不安だった。かといって大学進学を諦めて高卒で働くほどの度胸もない。するとあるとき跡部さんとの恒例の食事会で、一つの提案を受けた。『うちでインターンやるか』と。
色とりどりの魚が目の前を泳いでいく。それを目で追いながらリョーマは口を開いた。
「前に言ってた秘書ってやつ?になるの?」
「それはまだ分かんない。インターンやるからといってそのまま就職できるとは限らないし、私もそこはまだ考え中。」
「ふーん。」
リョーマはそれだけ言って黙り込んでしまった。でも少しして「いいんじゃない」と小さな声が聞こえた。
見上げれば目が合って、隣のリョーマの腕にそっと触れれば、こてんと首を折って私の髪に一瞬頬を寄せた。そしてまた水槽を見上げる。
お金を貯めてリョーマの試合を見に行きたいの、とは何故か言えなかった。何故だろうとリョーマと手を繋いで歩く帰り道に考える。黙って会いに行ってリョーマを驚かせたいから?それもある。きっと私は、大きな世界で活躍するリョーマに比べ私の目標があまりに些細なことだから言うのを躊躇してしまったのだと思う。でも少しでも自分の足で立って、胸を張って、ここまで来たよと笑顔で伝えたい。それが私なりに考えた、リョーマと対等でいるための方法だ。
一ヶ月後、リョーマと過ごしたシーズンオフはあっという間に終わり、リョーマはまたテニスの世界へ、私は冬休みが明けて最後の高校生活三学期に身を投じる。そして三月。迎えた卒業式の日、リョーマは突然現れて、顔も隠さず集まる注目をものともせず真っ直ぐに私に向かって歩いてきて、一つの美しいネックレスを届けてくれた。
あれから数ヶ月経ち、私の「世界で戦うリョーマの試合を見る」という計画は違った形で叶うこととなってしまった。これから始まる一年間、私はリョーマのツアーに帯同する。その資金はリョーマのツアーの予算から出るらしい。申し訳ないと思う。それでもリョーマは私についてきてほしいと言ってくれた。だから今はリョーマの気持ちを受け止めてできるだけ前向きでありたいと思う。私の個人的な目標は、またいつかきっと叶えられる。間も無く始まる新しいシーズンに、リョーマは少しずつ荷造りを進め、ツアーで必要な全てのものをカバンに詰め込む。そしてついにまとまった、私には持ち上げられないほど大きな荷物を、リョーマは平気な顔して担いで言う。
「行こっか。」
「うん。」
リョーマと過ごす、新しい一年が始まる。≪前 | 次≫
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