ディア・プランビー
11.知らないこと


景吾さんが用意してくれたこの新しいマンションは、セキュリティが厳重で警備員の目が行き届く。だけどどこかで心が落ち着きなく騒めく。引越しの荷解きを少しずつ進める。リョーマはオフでしばらく日本にいる。新居の匂いはまだ慣れないが、二人で荷物を整理しながら日常を取り戻そうとしていた。



SNSで景吾さんとの写真が拡散されて、女性に自宅を特定され襲撃を受けたあの事件から二週間。

少し時間が経ったことでSNS上での騒ぎは自然と別の話題に移ろい、沈静化してきた。杏ちゃんいわく、元の写真を撮影した人はあれから投稿を取り下げ、アカウントごと削除したようだ。
「嘘を認めたというよりかは、収拾がつかなくなったから逃げた、って感じかな。」というのが杏ちゃんの見解だ。

そして襲撃の女性───加害者とは、景吾さんから紹介された柔らかく落ち着いた印象の女性弁護士が全てのやり取りを請け負ってくれている。
私は被害届を出さなかった。大ごとにして世間の目をさらに集めることは避けたかったからだ。とにかく静かに終わらせたかった。


今日、朝の練習に向かうリョーマを見送ろうと台所の洗い物の手を止めたとき、スマホが小さく震えた。弁護士さんからのメールだった。件名はシンプル。『示談の完了について』

心臓がドクンと跳ね、指が一瞬躊躇う。深呼吸して、画面を開いた。


名字様
ご依頼の件、加害者との示談が本日をもって完了しました。相手方から謝罪および補償が提示され、名字様のご意向通り被害届の提出は行わず、穏便に解決しております。詳細は添付書類をご確認ください。ご質問や追加のご要望がございましたら、いつでもご連絡ください。



「どうかした?」
ダウンを羽織ってリョーマがこちらを振り返った。

「あの、弁護士さんから、これ、」

震える声を抑えて画面を差し出す。リョーマは目線を走らせて、次に私の目を見た。

「よかったね。」

リョーマが優しい顔でそう言うので肩の力が少しだけ抜けた。これでこの件はおしまい。ずっと続いていた緊張がようやく解けて、少しだけ息ができた。

「うん、よかった、本当に…」

そのときだった。
───ピンポン。
インターホンの音が部屋に鳴り響いた。

「…!」
「誰だろう。俺出るね。」

リョーマはモニターの前に立ち、インターホンを鳴らした人物と会話を始めた。

「…結構です。要らないんで。はい。要らないです。」
そう言って通話を切り、リョーマは私を振り返って「ただの勧誘。」と笑った。しかし、私は顔が上げられなくて、だって、心臓がものすごい速さで鳴っていて、目の前がぐらぐらとしているのだ。

「名前…?」

血の気が引いてしまった、こんなメールが来たばかりだから、もしかしてまた誰かが、と連想してしまった。そしたら汗が吹き出して動けなくなってしまったのだ。

「そう、勧誘。ごめん、びっくりしちゃっただけ。」

上手く笑えない。リョーマが私を見ている。笑わないと。そう思うけれど上手くできなくて、私は傷を負ったのだとようやく自覚した。

「…名前、今日は一緒に過ごそうか。」

袖を通していたダウンを脱いで、リョーマは私の背中に手をあてた。

「でも、練習…」
「自主練だから平気。」

リョーマはソファに私を座らせて、その隣に寝転んだ。タブレットの電源をつけてトップ選手の試合の映像を流す。

「…インターホン、しばらく鳴らないようにしておくよ。」

選手の華麗なネットプレイを巻き戻しながらリョーマは言った。顔に出さず、いつもの調子で。

「買い物も出掛けるついでに俺が行くし、欲しいものあれば練習中でもいつでも言ってくれていいから。」

それだけ言って、リョーマは他に何を言うでもなく隣にいてくれた。私もその画面を眺めた。
今リョーマがそばにいてくれて本当によかった。






リョーマとの生活も軌道に乗ってきて、リズムが掴めてきた、リョーマは日中は出掛けて、コートやジムで汗を流す。私はリョーマの帰りを待ちながら大学の課題を進めるなどした。
胸に押し込めていたあの事件のトラウマも時間が経つごとに少しずつであるが落ち着いてきて、私たちは新しい部屋で静かな時間を共有した。気付けばもう12月。




ある朝キッチンでコーヒーを淹れていたら、練習の支度をしながらリョーマがこちらにやってきて、「よくそんな苦いの飲めるよね」と言った。

「リョーマは今でもファンタが一番?」
「うん。でもコーチは飲み過ぎるなって…」

冷蔵庫を開けてファンタの缶を一つ取り出し、栓を開けた。

「ま、オフだし飲むけどね。」

涼しく笑う顔に、リョーマのコーチってどんな人なんだろうと思いを馳せる。



またあるときの夕方、キッチンで公認スポーツ栄養士のレシピを広げ今日の献立を考えていると、練習から帰ってきたリョーマが私の背中越しにそれらを覗いて、「へえ」と感心したように言った。

「こういうの見て作ってくれてるの?」
「うん、前に大会のケータリングは栄養士さんが監修してるって聞いたから、私も勉強してみようかなって。」

リョーマは目を丸くし、私の髪をくしゃっと撫でて「サンキュ」と短く言った。



そんな時間の積み重ねが、私の心を丸くしていく。穏やかな時間を二人で過ごし、ある日財閥の秘書課の上司からメールが届いた。

今度の対応の案として、リモートワークの提案が書かれていた。

『リモートの稟議が通りました。Wi-Fi環境があれば国外からでも作業可能です。初めはデータ入力や簡単な資料作成など、時間的に自由度の高い業務から。そして慣れてきたら量を増やしていきましょう。私たちも名字さんの最適な働き方を一緒に模索していきます。』

国外。私から打診したわけではないのにその想定で話が進んでいるのは、リョーマが景吾さんに話をしてくれたからだ。
「ついてきてほしい」とあの日リョーマは私に言った。これで仕事の環境はなんとかなる。大学も元から通信だからこれもなんとかなる。あとは私の決断だけ。







12月24日、リョーマの誕生日がやってきた。
この日は以前約束した温泉旅館に行く日だ。
思うことはある。胸の中は未だ微かにザワザワとしているのに旅行とは我ながら呑気だと思う。でもリョーマが誘ってくれたから。リョーマの誕生日だから。鏡の前で支度をし、今日は笑顔でと自分を励ます。

リョーマは少し前に「寄るところがあるから」と言ってマンションを出て行った。旅行の前に予定を詰めるとはフットワークの軽さに感心する。荷物を揃えてリビングで座っていると、リョーマから着信が。

「準備できた?」
「うん。」
「降りてきていいよ。下にいるから。」
「…?わかった。」

コートを羽織り、言われた通りに部屋を出てエレベーターを降りる。下とは、とマンションのロビーを見渡すもリョーマの姿はない。外かな。自動扉を抜ければ、冷たい風が吹いて鼻に染みる。そこにはどこか見覚えのある黒い車が停まっていた。

「お待たせ。」

そうだ、これは南次郎さんの車だ。でも乗っているのは南次郎さんではなくリョーマだった。
運転席から、リョーマが軽く手を上げて私に声をかけた。

「乗って。」
「え、リョーマ免許持ってたの?いつの間に?」
「結構前だよ。16歳のときアメリカでね。」

リョーマは運転席から降りてきて、荷物を後部座席に詰め、私を助手席に座らせた。この車は左ハンドルで、助手席は右にある。不思議な感じだ。車のこともそうだけれどリョーマと二人で並んで車内にいるのはなんだかソワソワとしてしまう。

「じゃ、行くよ。」
「うん、お願いします。」
「何緊張してんの。ペーパーじゃないから安心してよ。」

リョーマは慣れた手つきでギアを変えてハンドルを切る。その横顔がいつもより大人っぽく見えた。

「リョーマが免許取ってたの知らなかった。忙しいのによく時間作れたね。」
「向こうじゃ結構簡単なんだよ。」
「実はね、私も今年免許取ったの。」
「へえ。じゃあ眠くなったら代わってもらおうかな。」
「無理、緊張するもん。ハンドル逆だし。」
「そう?案外いけるかもよ。」

リョーマ、笑ってる。機嫌が良さそうでこちらも嬉しくなる。赤信号で停止してリョーマはオーディオの再生ボタンを押した。

「…わ、この曲懐かしい。」

リョーマがボリュームを上げると中学時代によく聞いていた曲が聞こえてきた。

「覚えてる?」
「うん。このバンド乾先輩が布教してて、一時期みんな聞いてたよね。懐かしい。」
「そうそう。思い出して久しぶりに聞いてみたら良くってさ。最近またハマってる。」
「それ今度取材とかで言ってあげてよ。青学のみんな喜ぶと思う。」
「そう?」

そんな話、聞いたら桃とか絶対に泣くと思う。リョーマは青学にいた時間はとても短かった。でもみんなにとってリョーマは特別で、大切な仲間。離れていてもずっと気にしていて、ふとしたときに「越前今頃どこで何してんのかな」「あいつのことだから元気にやってるよ」なんて空を見上げてみたりして。


「リョーマの中で青学のことがちゃんと残ってて、いい思い出になってるの、みんな嬉しいと思うよ。」
「なにそれ。まあ、楽しかったからね、いい思い出だよ。」


向かうは箱根。懐かしい歌が流れる車内はとても穏やかだ。






二時間ほど走り、箱根の旅館に到着した。冬の紅葉が彩る、日本庭園が綺麗な宿だった。

「素敵…」

今日泊まる部屋に案内されると、広くて綺麗な和室、その奥に露天風呂が見えた。

「リョーマこのお部屋、温泉ついてる!」
「気に入った?」

リョーマは私の腰を引き寄せキスをして「一緒に入ろ」と囁いた。

「いいけど、エッチなことはしません。」
「なんで。」

ケラケラと笑い合いながら、二人で湯船に浸かった。冬の寒さに、温かさが身体に染みる。

「最高。来た甲斐あった。」
「ね。お湯熱いけど顔が涼しいからずっと入れちゃう。」
「毎年、オフはこうしようよ。色んな宿に泊まって、最高の温泉を開拓する。」
「渋い趣味だよね。」
「付き合ってくれるでしょ?」
「うん。…あ、こら、触らないの。」
「ぎゅってするだけ。」

リョーマの膝の間で背中を預け、暗くなってきた空を眺める。来年の冬。そのまた先の冬。私たちは何をしているのかな。




風呂から上がり、浴衣に着替えるとリョーマは「その格好もいいね」と口角を上げた。本当に機嫌がいい。日が暮れて、夕食は宿の懐石料理。魚が美味しいとリョーマは感動していて、そんな無邪気な様子を見ていると今日ここに来れて良かったと心から思う。



夜が更け、部屋に二つの布団が並んで敷かれた。眠るにはまだ早いので、なんとなく縁側に出てみた。冬の夜風は冷たくて、見上げれば空に星が輝いている。風呂と食事で火照った体にこの寒さは心地いい。

「風邪引くよ。」

リョーマが羽織ものを持ってやってきた。私の肩にそれをかけて、隣に座った。

「ありがとう。優しいね。」
「普通だよ。」
「うん。リョーマは昔から普通に優しい。」
「その言い方はあんまり褒められてる気がしないなあ。」

リョーマは昔から変わらない。優しいところも、好きな飲み物も、お風呂が好きなところも変わらない。でも。

「…私たち、長く付き合ってるって思ってたんだけど意外と知らないことばかりだよね。」
「そう?」
「リョーマが免許取ってたのも知らなかったし、…どんな音楽を聴いているのか、とか、コーチってどんな人なの、とか。多分もっとあるんだろうな。」
「俺も名前のこと、免許もそうだし仕事のこととか、…それと料理をあんなに勉強してくれてたのも知らなかったし、あとなんで名前があんなに苦いコーヒー飲んでるのか分かんないしね。」
「コーヒーは美味しいもん。」
「俺はファンタでいいや。」

なかなか会えなくて寂しくても、お互いそれぞれ別の場所で頑張っている、それだけで心が強くなれた。知らないことが怖いわけではない。変わっていくことが怖いのではない。
星を見上げる。私は。

「…来年、ツアー、一緒に行ってみようかな。」

小さく、確かに、言葉にする。
ついてきてほしい、そう言ってくれたリョーマの気持ちに応えたい。

「名前…それ本当?」
「うん。次の一年、リョーマのことそばで見て、リョーマのこと知る時間にしてみようかなって…、うわっ」

突然、リョーマが私に飛び付いてきた。力強い腕が私を包む。温かい。安心する。リョーマとこうして抱き合うのは私は昔から好きだった。

「…ありがとう、名前。」

消え入りそうな声でそう言ったリョーマの頭を撫でる。すると不服そうに顔を上げて、「子供扱いしてる?」と言うので「恋人扱いだよ」と私は返す。
ムッとした顔をするのでそれがやっぱり可愛くて笑ってしまった。





「冷えてきたね。もう一回風呂入ろう。」

リョーマに手を引かれて部屋に戻る。正直不安だ。知らない国、知らない世界。先が見えないということはとても怖い。でも今確かにあるこの手の優しさ。きっと大丈夫、きっと頑張れる。
私は前を向いた。


「リョーマ、お誕生日おめでとう。」
「サンキュ。最高の誕生日だよ。」



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