ディア・プランビー
13.出発の日1月。リョーマの新しいシーズンが始まる。そして、私の新しい生活もまた幕を開けることとなる。今年一年、私はリョーマのツアーに同行する。
最初のトーナメントは全豪オープン。大会の1週間前、リョーマと共に東京を出発した。日本にはしばらく戻らない。景吾さんが用意してくれたマンションは引き払い、荷物はすでに実家の空き部屋に詰め込んである。冬の寒さが染みる夜、オーストラリアはメルボルンのタラマリン空港を目指した。
飛行機に乗るのは高校の修学旅行以来だった。飛行機は何度乗っても緊張する。修学旅行のときはエコノミーだったけれど、今回は初めてのビジネスクラス。搭乗前に専用のカウンターでチェックインをしたかと思えばラウンジなるところに通された。まるで高級ホテルにいるような雰囲気に、それでもリョーマは涼しい顔して普通に過ごしていた。私もリョーマに倣って向かいの革張りのソファに腰を下ろした。
「緊張してんの?」
私の顔を覗いてリョーマはそう言うので正直に頷いた。もう後戻りできないなと足元がふわふわする。
ラウンジの窓からは滑走路が見えた。暗い空の下、チカチカと並んで光る照明が季節外れの天の川みたいで綺麗だった。バーには軽食とドリンクが並んでおり、隣の席では、スーツの男性がシャンパングラスを傾けている。
非現実。まるで夢を見ているようだった。
アナウンスがかかり、搭乗口を抜けて機内に案内された。
座席には仕切りがあって一人当たりの区画が広く、背もたれを倒してフルフラットにすることもできた。リョーマは自分の席に入る前に私のところへきて、そっと頭に手を添えて笑いかけてくれた。
「時差ほぼないから、ちゃんと寝ときなよ。」
「うん、ありがとう。」
メルボルンに向けて、10時間のフライト。
離陸後、機内は次第に静かな雰囲気になった。朝に到着する予定だから今眠っておかなくては。リョーマはきっと慣れているからすぐに眠れるのだろう。私はどうしたって目が冴えてしまって、でも初日から寝不足で足を引っ張るわけにはいかない。ひたすらに目を閉じて、眠りに落ちるのを待った。
これがリョーマの日常なのだ。
月に何度も飛行機に乗って色んな国を飛び回る、それが彼の生活。そしてこの先一年の、私の生活。
長いフライトを終え、飛行機を降りた。検疫を抜けて次はいよいよ入国審査。英語で質問をされるのでこれもまた緊張する。でも英語はちゃんと勉強してきた。大丈夫と自分に言い聞かせる。
「俺先行くけど平気?」
審査の列に並んでいると、リョーマはさりげなく私を見た。平然としているように見えて、少し心配そうにも見える。
「緊張するけどやってみる!けどもし詰まったら助けて。」
包み隠さずにそう伝えると、リョーマはひとつ頷いて先に進み、落ち着いた様子でパスポートを審査官に提示した。そして淡々と質問に答えるとすんなりとブースを通過した。リョーマの英語は流暢と言うにも失礼とすら思える。当たり前だ。リョーマはアメリカで育って、今も一年のほとんどを海外で生活している。日本語よりずっと英語で話す時間の方が多いのだ。
次は私の番。パスポートを差し出し横目にリョーマを見れば、リョーマも私を見ていた。大丈夫だよ。私ちゃんと勉強したから。
”What’s the purpose of your visit?”───訪問の目的は何ですか、そう女性審査官が私に尋ねる。呼吸をひとつ。落ち着いて。私は答える。
「I’m here to watch the Australian Open!」
「お待たせ。」
「…びっくりした。普通に話せるじゃん。」
「ちょっとだけね。」
リョーマに比べたら全然まだまだ。でも私を見てリョーマが驚いた顔をしたから、私は嬉しくて少しだけ泣きたくなった。その顔が見たかったから離れていても頑張れたの。
「いつの間に勉強したの。」
「高校の頃少しだけ。海外で迷子になりたくなかったから。」
笑ってみせればリョーマはクールなその目を綻ばせた。
荷物を受け取りゲートを抜ければ、ガラス張りの広い到着ロビーに朝日が差し込んでいた。飛び交う色んな国の言葉、知らないお店、全豪オープンの派手で大きな広告。ガラスドアを抜けて外に出れば、ムワッと熱気が押し寄せた。1月のオーストラリアは真夏の気候だ。日差しに眩しそうに目を細め真っ直ぐに歩き始めたリョーマを、私は追いかけた。
「ホテルの前に、寄り道していい?」
「うん、どこに行くの?」
「メルボルンパーク。」
タクシーに乗り込み川沿いを走ること数十分。早朝の市中心部を車窓に眺めながらリョーマは言った。
メルボルンパークは全豪オープンの会場である。タクシーを降り、スーツケースを引きずってリョーマの後に続いた。遠くからテニスボールを打ち込む音が聞こえた。
パークの入り口、「Australian Open」の青い看板を抜ければそこはフェスティバルの雰囲気に包まれていた。ノリのいいBGMが広場で流れ、子供達がソフトクリームを手に走っている。屋外コートでは出場選手だろうか、ボールを打ち込み、コーチと思われる人の情熱的な指導が飛んでいる。初戦は一週間後だというのにここにはたくさんの人々が集まって夏空の下で盛り上がっていた。
「…すごいね。コートもたくさんあるし人もいっぱい。」
「グランドスラムだからね。」
リョーマを見上げれば、涼しい顔をしていて、華やかなこの場所に彼は馴染んでいた。
グランドスラム。全豪、全仏、ウィンブルドン、全米オープン。四大大会と呼ばれる世界で一番大きなテニスの祭典だ。
コートを横目に見る。選手たちはリラックスした表情で水分を摂ったり、首を傾げながら肩を回したり、真剣な目でデータを確認したりと、各々の表情でテニスに向き合っていた。
「リョーマも今日から練習?」
「うん。午後から少し打つけど、選手登録して練習コート抑えたら一旦ホテルかな。」
「そっか、荷物多いもんね。」
「それもあるけど、名前疲れてるでしょ。」
「え、…大丈夫だよ。」
「この先長いんだし今日くらいゆっくりすれば。」
リョーマはそう言って受付に進むと「Ryoma Echizen, player」と伝え、スタッフが「Welcome back!」と笑顔で選手パスを手渡した。青いストラップの先にカードが付いており、全豪オープンのロゴ、リョーマの名前が記されていた。
リョーマ、ここで戦うんだ。ずいぶん遠くまで来たような気持ちになる。ここから始まる闘いに、身が引き締まる思いがする。
日本を発ってからのリョーマはどこか言葉数が少なく静かな闘志を秘めているかのようで、でも時々振り返って私のことを見てくれている。正直飛行機ではあまり眠れていない。最初だからマメに心配もしてくれているけれどいつまでも甘えるわけにはいかない。早く慣れないと。
リョーマはラケットバッグに選手パスのストラップを通して着け、「じゃ、ホテル行こっか。」とまた歩き出した。
練習コートの脇を抜けて来た道を引き返せば、選手の応援をしているファンの二人組がこちらを振り向いて指を差した。また少し行けば、「Wao,Ryoma!」と人混みから声が上がる。トップ50のリョーマは、テニスの聖地を歩けば簡単に顔を指された。リョーマは変わらない表情で進んでいく。こんなふうに気付かれるのも慣れているんだ。リョーマの隣に立つ自分が場違いに感じる。私はどんな顔をしたらいいのか分からなくて、滲む汗はきっと夏の日差しのせいだけではない。
そんな中、リョーマが突然私の手を取って握った。
「リョーマ、」
私は思わず足を止めてしまった。
ふと頭をよぎる。景吾さんと食事をしたあのときのように、また写真でも撮られてしまったら。
「…嫌?」
「嫌っていうか、手、…これじゃあ目立つよ。」
「名前は俺の彼女じゃん。」
リョーマは当たり前のようにそう言って、もう一度しっかりと手を繋ぎ直した。
「普通にしてていいよ。」
そう言ってリョーマは真っ直ぐに歩き出した。
≪前 | 次≫
←main