ディア・プランビー
14.引き換えに


プロとして戦うリョーマの試合を初めて生で見たのは去年のジャパンオープンだった。あのときもプロの大会の華やかさに驚いたものだったけれど、全豪オープンはそれとは規模が違う。
会場の屋台エリアを抜けながら、リョーマに声をかけた。

「…去年、ジャパンオープンは予選から出てたよね。全豪も予選から?」
「いや、本戦から。グランドスラムは去年からストレートインだったよ。」
「そうなんだ?」

スラスラとリョーマは答えるが、私にはこの辺りの仕組みがあまりピンと来ていなかった。

「ジャパンオープンは参加枠が少ないからね。ATPの大会ってランキング上位から本戦の出場枠を埋めてくんだよ。」
「ランキングって、試合に勝つと上がるんだよね?」
「そ。ポイントが加算される。順調にランキング上げてけば今年はジャパンオープンもストレートで入れるんじゃないかな。」

ただ大会に出て、勝つか負けるか、だけじゃないんだ。色んな大会に出るためにランキングをキープして、そこでようやく狭き門を叩ける。出たい大会だけ出るとかやりたいときだけやるとか、そういう趣味の世界じゃなくて、トップで戦い続けるということはきっと私には知らない細かな戦略や努力があるんだろう。
想像していたリョーマの自由な印象とは実際は少し違うのかもしれない。その横顔を見ながら考えた。
そのときだった。

「おおー!コシマエ!ほんまにおった!めっちゃ久しぶりやん!」

背後から豪快な声。
振り返ると、伸びたタンクトップ、日に焼けた笑顔、年季の入ったラケットバッグ。そこには遠山金太郎がいた。
彼はリョーマの学生時代のライバルだった。リョーマは眉を下げて笑った。

「あーあ。うるさい人が来た。」
「遠山くん…?」
「あー!えっと───!そうや、名前ちゃん、や!謙也がよう言うてた!コシマエとツアー回ってるん?めっちゃええやん!」

私はこれまで遠山くんとはしっかりと話したことがなかった。(一応言うと謙也さんとも。)でも遠山くんはリョーマとは同学年だったし二人が並んでいるところを何度か見たことがある。彼は記憶のままの底抜けに明るい顔で笑っていた。

「何?いつもの“テニス旅”?」
「せや!さっきもそこらのコートで打ってきたで!」
「遠山くんも全豪出るの?」
「いや、キンタローは出ないよ。ランキング持ってないからね。」
「そうなの?」
「ランキングとか知らん!テニスは楽しんだもん勝ちや!」

遠山くんは振り上げた腕をブンと回して屋台の方向を指差した。

「んで腹減った!なんか食おうや!」

慌ただしい人。こちらの返事も待たず遠山くんはフードエリアへ走って行った。残されたリョーマと思わず顔を合わせて笑った。同行初日の緊張が、少しだけ溶けた気がした。




ハンバーガーやタコスの香りが漂う屋台を巡り、三人でテーブルについた。

「遠山くんランキングないって言ってたけど、プロ契約してないってこと?」
「一応キンタローもプロだよ。公式戦出ないからポイントは今持ってないってだけで。」
「そ!やめてん!ていうても引退ちゃうで!テニスはしてる!」

フライドポテトを口に詰め込みながら遠山くんは高らかに言い切った。

「ワイは好きなときに好きな場所でテニスするんや!」

話を聞くに、遠山くんは「テニス旅」なるものをしている最中だそうだ。
全豪オープンには資格がなく出場しないけど、そういう大きな大会があるときは近郊で付随のテニスイベントが多く開かれるらしく、今回はそれが目当てなのらしい。

「最初は日本一や世界一や言うてな、めっちゃ強いテニスプレイヤーになったる!思ってたんやけど、なんていうん?公式のやつ?ちゃんとした大会出てプロにもなったんやけど、したらなんやテニス以外のことでめっちゃめんどくさいやん!知らん大人に囲まれて窮屈やしギィ〜ってなってな、で、やりたいテニスはこれとちゃうな思ってん。」
「それでテニス旅を始めたんだね。」
「せや!公式非公式プロアマ関係ない!コートあるとこどこでもテニスする!その全部に勝ったらナンバーワンやん!賞金なんか出たらラッキー!ワンコインでも大儲けやで!」

なんという無鉄砲。私は呆気に取られてしまった。彼はプロの街道を蹴って自分なりに世界を模索しているんだ。
リョーマは呆れ笑いを浮かべた。

「それでどうやってメルボルン来たんだよ。エコノミーだって10万はかかるでしょ。」
「へへ、バイトや!大阪でたこ焼き焼いて、昨日もシドニーで肉屋の手伝いしたで!賄いで腹パンパンや!金ないけど、テニスできりゃ最高やん!」
「遠山くん、バイトしてるんだ…!」
「ツアープロで上手いこといったらかなり稼げるんやろうけど、ランキング上げるためにあの大会出てこの大会出て〜いうて計画的にやらんとあかんねやろ?ワイそういうの苦手やし!」

遠山くんは満足そうな顔でそう言い切った。
私はかつてリョーマのことを「好きなときに好きなテニスをしている」と思っていたけれど、遠山くんの話を聞く限り、自由とは遠山くんのためにある言葉のように思えた。でも彼がコートに向かうためにバイトを詰めているように、自由にも代償がある。はたから見れば大変そうに思えても、それが彼にとっては息のしやすい世界なんだ。

その話を聞いて青学大に行かずに財閥で働きながらいつかのために旅費を貯めると決めた自分の選択が重なった。
でもそうやって少しずつお金を作ろうとしていることだけが努力ではなくて、リョーマだって大きな大会に出れば大きな賞金を得るのだろうけれど、きっとそれに引き換えに私には知らない苦労と闘ってる。何を選んでどの道を進むかは人それぞれだし何が正解だなんて分からない。でも信じて進んでるんだ。

「プロとかグランドスラムとかかっこええなあ思うけど、ワイは今のテニス旅が楽しくてしゃーないんや!コシマエは名前ちゃんおるからなあ、しっかりせなあかんよなあ。結婚とかせえへんの?」
「け、…?!」

飄々と遠山くんがそんなことを言うものだからむせてしまった。リョーマは私の背中を摩りながら冗談なのかよく分からない口調で言った。

「ま、だから今、しっかりやってんだよ。」

「ええやん、ええやん!なんかワイめっちゃ元気出てきたわ!よっしゃあ!コシマエまたどっかで会ったら試合してなー!名前ちゃんコシマエのことよろしくなー!」

そう張り切って高く飛び上がると、遠山くんは山嵐のごとく去って行った。

「ああうるさかった。」

リョーマはそんなこと言いながらも、頬杖をついて遠山くんのことを面白そうに見送っていた。

「ああいう生活も憧れちゃう?」

なんとなく尋ねると視線を私に戻してリョーマは笑った。

「楽しそうだとは思うけど、名前がいるからね。」
「私もしかして邪魔になってる…?」
「いや。その逆だよ。…俺たちもそろそろ行こうか。」

テーブルの上を片付けて立ち上がった。私たちは今度こそ、宿泊先のホテルへと足を向けた。

“だから今しっかりやってる”、邪魔の“その逆”、…顔に熱が集まる。リョーマは普段口にしないけれどどうやら先のことをしっかり考えているらしい。そしてもしかしたら、大事なテニスとの向き合い方に、私のことも含めて考えてくれている。これはすごいことだ。





その後リョーマはホテルのチェックインを済ますと一旦荷物を部屋に起き、また会場へと戻って行った。

私は部屋に残り荷解きをしながらぼんやり考えた。ここには大会終了まで滞在する。練習期間の一週間と、大会期間の二週間。確かに先は長い。長距離の移動、季節外れの暑さ、飛び交う英語、知らない空の色。まだ何も始まってすらいないのに、部屋に一人になったらドッと疲れてしまった。この大会が終わればまた次の地へ向かう、その繰り返しの一年間が待ち受けている。広いベッドに寝転んで瞼を閉じた。


「…ちょっとだけ休憩。」


少し目を瞑っているだけのつもりだったけれど、気付けば眠りに落ちていた。次に目が覚めたのは夕方だった。
目を開けるといつの間にかリョーマが帰ってきていた。

「…ごめん、寝ちゃってた。」
「いいよ。少しは休めた?」

リョーマは枕元に座っていて、私を見下ろしていた。いつからそうしていたのか、気付かぬうちに手を握られていて、絡めた指を取ってリョーマは私の指先にそっと口を寄せた。

「俺明日から練習行くけど、名前どうする?ホテルにいる?」
「うん、大学の期末が近くて課題が多いんだよね。試合は集中して見たいから練習日は残って作業してようかな。ついて行っても邪魔しちゃいそうだし。」
「そうでもないよ。練習にも観客入るし、賑やかな感じだから。でもまあ無理しなくていいよ。試合の日に来てくれれば。」

リョーマは私の手の甲を撫でながらそう言った。私は体を起こしてリョーマの手のひらをとった。ラケットを振るってできた豆だらけの、硬い手。

「うん、リョーマのテニス観るの楽しみ。明日の練習は朝から?」
「そ。コーチと調整。あの人早起きでさ、待たせるとうるさいんだよね。名前は朝ゆっくりでいいよ。移動疲れたでしょ。」
「少し…。飛行機で寝るのって難しいね。こんな時間にしっかり寝ちゃったから今日眠れないかも。リョーマは平気なの?」
「時差あるとキツイときもあるけど、ちゃんと昼間動いて夜寝ればすぐリズム戻せるよ。」
「さすがプロだね。」
「まあもう何年もやってればね。…眠れないなら今夜は一緒に運動する?」
「ねえそれ絶対言うと思った。」

リョーマの冗談に笑っていると、私のスマホの通知が鳴った。画面を見れば、景吾さんからだった。
『無事着いたか。これから秘書課からリモートの仕事を回すがお前のペースで無理せず』とのメッセージ。二人で画面を覗いて吹き出してしまった。

「跡部さんってこんなこと言うんだ。」
「ちょっとこれは優しすぎるね。」

リョーマはベッドに寝転び、私を見上げた。

「仕事も始まるなら、名前も忙しくなるね。」
「うん…。」
「大丈夫?」

大丈夫とは。リョーマの投げかけてくれた言葉の意味を考える。不安な顔をしてしまっただろうか。リョーマはじっと私を見ている。

「リョーマ。私ね。」

心配をさせたくない。でもそれは、だから言わないってことじゃない。話してみようかな。ちゃんと伝えて、わかってもらうってことがきっと私の足りないところ。

「財閥の仕事、色々あったけど…仕事自体は好きなんだよね。」

景吾さんからのメッセージを眺めながら、考える。日本を発つことになったきっかけの出来事。仕事で会っていただけなのに景吾さんとの関係を誇張して書かれるような出来事が二度あった。週刊誌と、SNSの投稿。
有る事無い事を言われたり、またあのときみたいなことが起きたらと思うと身がすくむ。これからどうしようとも考える。でも。
最初は跡部財閥に関わるなんて身の丈に合わないと思ってた。だけどやってみたら面白いと思えた。

「だから、…続けてみたいの。」
「うん。」
「リョーマこんな大きな舞台で頑張ってるんだもん。負けてられない。」

それに。今回はリョーマに連れてきてもらうことになってしまったけれど、やっぱり私は自分の足で立って、自分の力でリョーマの試合を見に来たいんだ。

リョーマは静かに私の話を聞いてくれた。思えば仕事のことをきちんと話すことはこれまで無かったように思う。
リョーマはゆっくりと体を起こし、私の頭をポンと撫でた。

「俺も頑張る。」


リョーマは私の前髪にそっと口をつけた。じゃあシャワー浴びてくる、と優しい目をして言ってもう一度私の髪を撫でた。




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