ディア・プランビー
15.連帯


メルボルンに着いて3日が経った。初戦の日が近付いてきた。今日もリョーマは調整でメルボルンパークに向かう。

この生活を始めてまだ間もないがなんとなくリズムが掴めてきた。
朝はホテル内のレストランで一緒に朝食、その後リョーマは出かけて、夕方に戻る。私は清掃の時間を避けるために昼間は宿泊者用のラウンジに移動し、大学の課題や財閥の仕事に取り掛かる。そして夕暮れにリョーマと合流し、またホテル内のレストランでディナー。そして部屋に戻り一日が終わる。

生活をしていると必然的に色々と必要なことが出てきて、例えば洗濯。荷物を減らすために着替えは最低限にしており、数日置きに洗濯をする必要があった。大会にはランドリーサービスがあるのでリョーマの練習着などは大会運営が用意するが、それでも私服がそれなりに溜まる。

この日の朝、私は練習に向かうリョーマに声をかけた。
「リョーマ、服出しといて。ホテルのランドリー持ってっちゃうから。」
「俺これから練習行くし、ついでに出しとくよ。回収はお願いしてもいい?」

リョーマはこういうことを私に任せきりにせず自然に分担してくれる。日本の私のマンションで過ごしたときもそうだった。なんというか、自立している。普段は一人でツアーを回っているのだから生活力も自然と身につくのかもしれない。

練習に向かうリョーマを見送って、昼過ぎ、ランドリーコーナーに寄り乾燥が終わっているのを確認して洗濯物を回収した。部屋に戻ってそれらをベッドに広げて畳んでいると、練習を終えたリョーマが帰ってきた。

「ただいま。」
「おかえり。今日は早いね。」
「うん。これからミーティングあるから。…なんかそうしてるとマネージャーしてた頃思い出すね。」
「そう?」

リョーマもベッドに上がって、自然に洗濯物を畳み始めた。手伝う、とかじゃなくて、彼にとってはきっと普通のこと。

「青学の頃、先輩たちが大量のタオルに埋もれながら畳んでる名前見て可愛いとか言っててさ、そのときは何言ってんだって思ってたけど、今はなんとなく分かるよ。」
「洗濯物畳んでるのが可愛いの…?全然わかんないや。」
「やだなあ俺も歳とったのかも。」
「18歳が何言ってんの。」

畳んだ洗濯物をそれぞれのスペースにしまいながら、リョーマは私を振り返って言った。

「あのさ」
「ん?」
「今日、夕方からチームのミーティングあるんだけど名前も来ない?」
「…?」

リョーマの顔を見れば普通の顔をしている。突然の提案に理解が遅れる。チームの、ミーティング?
財閥での部内会議を思い起こす。会議室で、難しい資料が配布されて、パソコンをプロジェクターに繋ぎ、メモを取りながら上長の話に耳を傾けるあの時間。

「…それ、私も行っていいの?」
「うん。これから一年帯同するし、名前のことみんなに紹介したいんだよね。」

そう言われてしまうとNOとは言えない。確かにそうだ。挨拶はしておかないといけない。でもチームってなんだろう。頭に浮かんだのは中学時代の部活仲間。でもプロの試合は個人戦だ。選手同士の横の繋がりがあるのだろうか。大人数だったらどうしよう。

「ミーティングって言ってもメインは食事だよ。食べながら方針とか話すの。ラフな感じだしディナーのついでにどう?」
「うん、わかった。…行く。」
「緊張しなくていいってば。」

そうリョーマは笑って言ったけれど緊張するなと言う方が無理がある。急いで鏡の前でメイクを直し、夕暮れ時のメルボルン、リョーマに連れられてヤラ川沿いのカジュアルなステーキハウスに足を踏み入れた。


「Ryoma! This way! 」
賑やかな店の通路を進むと、フランクな男性の声が飛んできた。奥のテーブルに座る人が手を上げてこちらを見た。その方を含めテーブルには3名、大人が座っていた。全員日本の方ではなさそうだ。飛び交うのは当然のように英語。

「おっ、例のガールフレンド連れてきたな?」
「うるさいな。…彼女、名前。今年のツアー、一緒に回るから。」
「名字名前です。よろしくお願いします!」
「よろしくね。こいつのことはジュニアのときから知ってるけど女の子連れてきたのなんて初めてだよ。ようこそ我らのチームへ!」

チーム。この人たちが“リョーマのチーム”?
リョーマに促されて空いている椅子に座った。向かいに座る女性があなたもコーラでいい?と言うのでありがとう、お願いします。と返した。英会話を勉強しておいて、本当によかった。
リョーマは私を小突き、日本語で言った。

「名前、紹介する。コーチのマイク、フィジオのマーカス、マネージャーのゾーイ。」
「フィジオ…って何をされる方なの?」
「トレーナーのこと。体の調子見てくれる人。」

リョーマは席に座る人たちを順番に紹介した。そうか。リョーマの言っていたチームというのは団体競技ような選手同士の括りの意味ではなくて、リョーマのテニスに関わるサポートメンバーによる組織のことだったのだ。コーチがいらっしゃるということはなんとなく知っていたけれど、他にも色んなスタッフさんがついていたんだ。

注文した飲み物と、ステーキのプレートがすぐに運ばれてきて、リョーマは店員からドリンクを受け取って一つを私の前に並べた。

「そんなに堅くならなくていいよ。普通にしてて。」
「うん…ありがとう。」

「ヘイリョーマ!随分と態度違うじゃねえか!俺たちにももっと優しくしろよ!」
「そりゃあ彼女なんだから、あんたたちと一緒ってわけにはね。」

淡々と言い返してリョーマはコーラを飲み始めた。違う…そうなんだ。客観的な指摘に、なんだかくすぐったく感じてしまう。

テーブルは賑やかで、リョーマの言っていた通り確かにラフな雰囲気だった。スタッフ陣は酒を煽り、陽気に話を弾ませる。彼らは全員アメリカ人だそうだ。プロ転向後しばらくはコーチとリョーマの2人体制だったけれど、リョーマの活動が進展していくにつれ徐々に仲間を増やし、今の体制になったらしい。

「あとはここにはいないけど、外部のデータアナリスト…ああ、リョーマの対戦相手とか試合の解析をする人ね。それから大会中の食事プランを考案してくれる栄養士、あとはあのお堅い会計士さん。他にもスポンサー関係とか…ヒッティングパートナーもそうね。リョーマのテニスには私たち含めたくさんの人間が関わってる。こんな感じでリョーマのチームはできてるけど、毎試合マストで同行してんのは私たちってわけ。」

マネージャーさんが私にそう言った。彼女はコーチのツテで去年からマネージャーとして参加しているそうだ。絵に描いたようなサバサバとした印象の彼女は続けて言う。

「リョーマ早速で悪いんだけどさ、全豪終わったら次のトーナメントまで二週開くわよね。一旦LAに戻るの?」
「そうするつもり。いつものハウスキーパー頼んでおいてよ。」

マネージャーさんは鞄からタブレットを取り出し、慣れた手つきでスケジュールの入力を始めた。楽しい雰囲気の食事会で忘れていたがこれはミーティングなのだった。

「OK、名前も一緒なんでしょ?掃除は念入りにって伝えとくわ。そういえば名前はリョーマのLAの家は行ったことあるの?」
「いや、今回が初めてだよ。ね?」

“No, it’s her first time, right?”
リョーマはそう言って会話の流れで私を振り返った。リョーマから英語で話しかけられたのは初めてで一瞬驚いてしまったが、私はすぐに“Yes…my first time in America, too.” ───うん、アメリカ自体行くのも初めて。そう返した。

「…あ、ごめん。無意識だった。」
リョーマは我にかえったようにハッとして、慌てて日本語に戻した。なんだかそんな様子のリョーマが珍しくて私は少し笑ってしまった。
「私に気遣わないで大丈夫だよ。みんなが言ってることも大体は分かるから、そのままで。」

私たちのやりとりを見て、コーチが手を叩いて笑い出した。

「おいリョーマのそんな顔、試合中でも見られないぜ!やるな彼女さんよ!」
「いちいち調子狂うな…黙って飯食えよ…。」
「ミーティングだろ?黙ってちゃ始まらないぜ!」

「リョーマ、僕からの意見なんだけど、ガールフレンドが同行するのはいいが試合前はしっかり体力温存した方がいい。」

冷静にそう切り出したのはフィジオの男性だった。

「?温存してるよ。ジムも軽め、睡眠8時間。問題ない。」
「そうじゃねえよガキ。はしゃぎすぎるなって話だ。毎晩夜更かしで次の日ヘロヘロなんてプロ失格だからな?」

そこにコーチも加勢するので、リョーマは口を尖らせた。

「は?!名前の前でそんな話すんなよ!ていうかそんなヘマしないし。」
「どうだか。ああそうだリョーマ、初戦の相手なんだが───」

肉を頬張り、酒を煽り、大声で笑い合いながら様々な話をした。彼らはみんな州は違えど同じ国の出身で、リョーマも生まれも育ちもアメリカ。波長が合うのだろう。雑談を交わすように戦術に対する議論や、他の選手の情報なども交わしあった。こういうスタイルのミーティングも成立するんだ。



デザートのバニラカスタードスライスがテーブルに届いた。

「名前大丈夫?疲れてない?」
リョーマが私の顔を覗き込む。
「大丈夫。楽しくって時間があっという間。ミーティングって、もっと会議室でプロジェクターつけて話すような、堅いイメージだった。こういう形も面白いね。」
「そういうチームもあるよ。うちはこうってだけ。どうせ飯はどこかで食べるんだし一度に済ませちゃった方が効率いいでしょ。」

確かにそうだ。リョーマに同行するこの方たちも大会中はホテル暮らしでサポートに専念するんだ。忙しい中で時間を有効に。柔軟な考え方に私は深く頷いた。

「ま、ミーティングってことにしちまえばリョーマの金で食い放題に飲み放題できるしな。」
「言い方。経費ね。」

残りのビールを流し込んでコーチが茶化し、リョーマは眉を上げて訂正をした。ひとしきり笑った後、彼は次に真剣な目をして私を見た。

「よお名前、聞いてくれ。」
「…!はい。」
「俺たち偉そうなことも言うけど、この飯代だけじゃねえ、俺たちはリョーマの雇われだ。給料はリョーマの金から出る。俺からすればまだまだガキだけど、でも、このチームじゃあリョーマが俺たちのボスだ。ここにいるみんな、本気でリョーマを勝たせるために動いてる。美味い飯食って、リョーマが結果出してくれりゃあ、また美味い飯が食える!これが俺らのモチベーションだよ。」

一見緩くも見える彼らのスタイルは、しかし根は熱く、リョーマへのリスペクトが滲んでいる。リョーマを勝たせるという気持ち,みんなで同じ方向を見ている。この“チーム感”、信頼し合っているのだとよく分かる。



私はずっと、リョーマは「テニスが好き」で、「テニスが好きだからテニスをしている」のだと、そう思い込んでいた。

あれは11月。引きちぎられたネックレスをリョーマに差し出したときのこと。
「引退する」あのとき、そう言っておきながらリョーマは一晩でその考えを改めた。
その彼の心変わりを、きっとテニスが大事だから離れられなかったのだと、そう私は受け止めたのだけれど、それだけではなかった。こうしてリョーマのテニスにはたくさんの人が関わっていて、時間を、情熱をかけている。多くの人の人生がリョーマの背中に乗っている。
引退、そう切り出したリョーマの声は揺れていた。迷っていた。迷って当然である。私のためにコートを降りようとしたこと、本当に怖かった。でもそんな私の気持ちなど、彼らのリョーマに捧ぐ想いに比べれば、なんて漠然としていたのだろうと今では思う。


「じゃあまた会場で!」
「名前明日練習見に来いよ!」

陽気に手を振って、チーム一行は店を出た。リョーマは「酔っ払いたち、ちゃんと明日も出てきてよね」と軽口を投げて、私の手を握ってホテルへの帰路を行く。


テニスを続けるという道。
リョーマは走り続けると決めたのだ。彼の背負っているものの重さに、ただ守られてただ着いてきただけの自分が小さく感じる。私も、リョーマを支えなきゃ。力にならなくちゃ。

「…明日練習見に行ってみようかな。」
「うん。みんな喜ぶよ。…俺もね。」

彼ら曰く私にだけ見せる、優しい目で、リョーマは笑って私の手をきゅっと握り込んだ。










本戦まであと2日。私は今日、リョーマの練習についてきた。一緒にホテルを出て、正門で一旦別れる。「なんかあったら連絡して」とリョーマはラケットバッグに吊るした選手パスを揺らして会場に入って行った。

今日もメルボルンパークは多くの人で賑わっていて、リョーマのコート練習が始まるまで近くを見て回ってみることにした。私にとっては下見の意味もある。リョーマの試合の日はここで観戦するので、雰囲気だけでも見ておきたい。

人混みを縫って歩けば、エントランスのベンチやカフェの席でパソコンを開いている人を時々見かけた。なるほど、と思った。これなら私もリョーマの試合の合間に大学の課題や財閥の仕事ができそうだ。

少し行った先に、人だかりができていた。近付いて見れば特設テントが張られていて、長机に公式グッズやテニス用品が並べられていた。大勢のファンが覗き込み、思い思いの品を手に取って購入している。中にはバスケットボールほどの大きなテニスボールなんかも売られていて、親に買ってもらった子供達が嬉しそうに抱えて走っていく。何に使うのだろうと思って目で追えば、「早くサインもらいに行こう!」とはしゃぐ声が聞こえた。そう、サイン用のグッズなんだ。部屋に飾ったらきっと可愛いだろうなと思うけれど大きいから荷物になってしまう。

一通り売店を見て回って、服飾コーナーに目が留まる。リストバンドやキャップが並ぶ中に好きな色味のTシャツが置かれていた。可愛い。
「せっかくだから買っちゃおう。」
これなら場所も取らない。記念にあとでリョーマにサイン書いてもらおうなどと浮かれながら代金を支払い、鞄にしまった。

コートに向かうとちょうどリョーマの練習が始まるところだった。コートの外周をファンやメディア陣が取り囲んでいる。リョーマ、注目されているんだ。無数の視線を浴びても彼は平然としている。相変わらずの強心臓だ。

リョーマは私に気付くと一瞬目を細め、コーチの指導のもと練習を始めた。コートの向こうには若い男性が構えている。あの人がヒッティングパートナーだろうか。初めは軽く、そして段々とリズムを上げていきコーチの声にも熱が入る。
「もっとスピンかけろ!」
リョーマは少し荒い声で「了解!」と返し、集中した目でラケットを握り直した。やはりコートに立つリョーマが、一番かっこいい。

一時間ほど打って、コーチとベンチでタブレットを覗きながら話し合いをしたあと、荷物をまとめてリョーマは立ち上がった。引き上げるのかと思えばコートの端の、ファンが集まるエリアに足を向けた。

「リョーマ!サイン!」

子供達が大きなテニスボールを差し出して元気な声でリョーマを呼んでいた。若い女性たちも集まり、自身の服やスマホケースにサインを欲しがっていた。リョーマはギャラリーの輪に入り、穏やかな顔で応じていた。会話をしながらペンを片手に手際よく対応し、それを5分ほどで切り上げたリョーマはファンに見送られながら今度こそコートを去った。

リョーマ、大人になったなあ。
ファンに親切に対応するその姿を見て思った。プロとして戦うってこういうことでもある。一人のテニスじゃない。一人の責任じゃない。イメージよく過ごすのも必要なことだ。あんなに生意気な言葉ばかり吐いて必要以上に人と関わらなかった中学時代の彼からは想像もつかないファンサービスの姿に、なんだか心が温かくなった。




その後リョーマは会場内のジムへ向かったらしい。私は他の選手の練習を見たりカフェで過ごしたりしながら、夕方リョーマと合流した。

「お待たせ。」
「お疲れ様。」
「遅くなってごめん。ジムのあと取材受けて、そのあとスポンサーに捕まってこんな時間…。一人で大丈夫だった?」
「うん、色んなところ見れて楽しかったよ。物販で可愛いTシャツ買ったからあとでサインして!」
「サイン?なんでまた。いいけど、珍しいね。」
「今日ファンの子がしてもらってるの見て羨ましくなっちゃった。」
「羨ましい、ねえ…。俺、名前のことはいつも特別扱いしてるつもりだけど?」
「…」
「変な顔。」
「…リョーマがずるいこと言うからじゃん!」

笑い合いながらホテルの部屋に戻った。
リョーマは荷物を下ろすとシャワールームへ向かった。服を脱ぎながら、こちらを振り返ってリョーマは言う。

「…あー、名前。」
「何?」
「一応言っとくけど、試合前だから俺しばらく節制するから。コーチが禁欲しろってうるさくてね。」
「そうなんだ?うん、わかった。」
「もしかして今夜期待してた?」
「はいはい。早くシャワーいってらっしゃい。」

悪戯っぽい顔を浮かべるリョーマの背中をシャワールームに押し込んだ。禁欲、か…。そういうことも管理しなくちゃいけないなんてプロって本当に大変だ。
荷物を整理しようと鞄を開く。そうだ、サイン書いてもらわなきゃ。Tシャツを袋から取り出し、タグを切って袖を通してみた。鏡の前で一周してみる。思った通りのサイズ感で胸を撫で下ろす。
しばらくした頃にリョーマが戻ってきて、私の姿を見て、フ、と息を漏らした。

「いいじゃん。書く?サイン。」
「うん!肩にしようかな、書けそう?」
「ん。じっとしてて。」

リョーマはペンを取ると私をベッドの端に座らせた。私の腕を取って固定するようにしっかりと握る。ふわりとシャンプーの香りがして、硬いペン先が走る感触がこそばゆい。

「はい、できた。」

リョーマが顔を上げると、私の袖には流れる字で「Ryoma」と書かれていた。

「やったあ。ありがとう!」

袖を覗いてその文字に見惚れていると、ギ、とベッドのスプリングが鳴った。見上げればリョーマが片膝をベッドに乗せていて、次に私の肩をぐっと押した。

「?」
「動かないで。」

するとリョーマは突然私の服を捲り始めた。

「え…っ、禁欲するって、言ってたじゃん…!」
「違うってば。いいからじっとしてて。…ていうかやっぱ期待してたんじゃん。」
「そういうことじゃなくて!」

リョーマは服をたくし上げ私に腹を出させると、肌にペン先を当てた。

「ちょっと…!くすぐったい…っ」
「我慢。…はい、書けたよ。」
「え…、」

リョーマはカチリとペンのキャップを閉め、私を振り返って不敵に笑った。自身の体を見下ろせば、Tシャツの袖に書かれていたのと同じように、肌にリョーマのサインが記されていた。

「これで特別だね。」

悪い顔をしながらリョーマはそう言う。いや、あの。

「これ油性なんだけど…!」
「そうなの?まあいっか。」
「最悪…消えなかったらどうするの!」
「いいじゃん。記念に残しとけば。」
「えー…」
「えーって。」

もうどうでもよくなってしまって二人でベッドで寝転んで笑い合った。こんな何気ない幸せに、思い切ってツアーについてきて良かったと思った。
日が傾いてきた。共に体を起こしてベッドを抜け出し、ディナーにホテル内のレストランへ向かった。









メルボルンの暑い夏の日を過ごし、あっという間に初戦前夜がやってきた。

明日の支度を整えてあとは眠るだけ。一見リョーマは落ち着いているように見えて、きっと私の方が緊張している。先にシャワーを済ませたリョーマはソファでリラックスしていて、続いて私が髪を拭きながら浴室から出ると、リョーマは触っていたスマホを下ろして私を手招きした。

「ドライヤー貸して。」
「乾かしてくれるの?」
「たまにはね。」

リョーマは私を膝の間に呼んで、私の髪に風をあて始めた。リョーマのしっかりとした手が優しく髪をかく。

「手、疲れない?」
「ん?」
「腕大丈夫?明日試合なんだから無理しないで。」
「これくらい平気。」

ドライヤーの音に言葉をかき消されながら少し話をして、しばらくした頃リョーマはスイッチを切ってもう今一度確認するように髪に指を通した。

「はいできた。」
「こんなことしてくれるなんて珍しいね。」
「まあ。気が向いただけ。」

ドライヤーを脇に置くと、リョーマは私の腰に腕を巻きつけ、肩に額を置いた。落ち着いているようにも見えたけれど、それでもリョーマなりに緊張しているのかもしれない。いつもと様子が違うとこちらまでソワソワしてしまう。大事な試合の前だ。リョーマの気の済むまで私はじっとしていることにした。まるで甘えるかのように額を擦り付けるその仕草は、猫みたいで可愛いと思った。

「そうだ、名前。」
「ん?」

リョーマは顔を上げると、体をひねってソファの脇に立てかけているラケットバッグに指をかけて引っ張った。ファスナーを開き、中からストラップのついたカードケースを取り出した。リョーマの選手パスと似たデザイン。それを私に差し出した。

「はい、これ。」
「何…?」
「ゲストパス。これで名前も選手エリア入れるから。」

握らされたパスに目を落とすと私のフルネームが英語で記載されていた。その下に「Guest of Ryoma Echizen」と記されている。

「用意してくれたの…?」
「マネージャーがね。試合はどこで見てもいいんだけど…スタンドのフリーエリアが入りやすいと思う。好きなとこ座って。」
「ありがとう。」
「あと明日の朝は俺先に出るから。試合の少し前にマネージャーが車出すから名前はそれ乗ってきて。」

リョーマは私のパスのストラップを指で弄びながら言った。

「本当は一緒に行けたらいいんだけど本戦の日は出待ちがすごいんだよね。メディアとかファンとか。だから時間空けて来て。」
「わかった。ありがとう、リョーマ。」

未だにカメラに怯えている私にリョーマは気を遣ってくれている。
仮に朝一緒に会場に向かったとして、人混みやカメラを掻き分けながらリョーマと笑い合って並んで歩けるのかと聞かれたら、正直頷けない。でもこの先永くリョーマと一緒にいることになるのなら、いつかそういう私にならなくちゃとも思う。でもリョーマは急かさないでいてくれる。その優しさがありがたい。

その後、部屋の明かりを落として二人でベッドに潜った。明日に備えて早く眠らないと。リョーマは私の体をそっと引き寄せて触れるだけのキスをした。そして私を腕の中に納めたまま、ふうと今にも眠りに落ちそうに肩の力を抜いたので慌てて声をかけた。

「リョーマ、腕痺れちゃうから、離れて寝よう。」
「少しだけ。」

そう言いながら頑なに動かない。まあいっか。寝息が聞こえるまで私はそのまま待ち、呼吸が深くなった頃に腕から抜け出した。

「おやすみ。」

柔らかな前髪を撫でる。リョーマ。顔立ちはすっかり大人っぽくなったけれど、寝顔は中学の頃から一つも変わらないね。









翌日、リョーマの全豪オープン初戦の日。ツアーの幕開けを祝福するように雲ひとつない快晴の青空。

荷物を背負ったリョーマは、部屋の出口まで行くと一旦それを床に置き、腕を広げて私に視線を投げた。駆け寄って背中に腕を回せば、ぎゅうときつく抱きしめられた。

「行ってきます。」
「うん。いってらっしゃい。今日暑くなるから気をつけてね。」
「名前もね。」
「うん。ありがとう。」

目を合わせるとリョーマは満足そうに笑って荷物を抱え直した。そしてドアを開け、私を振り返って言う。

「名前。俺勝つから、見ててよ。」

不敵な目が光り、パタン、と扉が閉まる。ああ、かっこいいなあ。しみじみとそう思った。






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