ディア・プランビー
16.全豪オープン


その数時間後、ホテルのエントランスにて、リョーマのマネージャーさんが回してくれた車に乗り込んだ。
走り出して少しした頃、私はハンドルを握るその背中に声をかけた。

「あの、ゲストパス、ありがとうございました。手配していただいて。」

パスはマネージャーさんがとってくれたのだと昨日リョーマが言っていた。私の名前が入っていて、わざわざ作ってくれたのだと感動したものだ。だからお礼が言いたかった。
しかし彼女はバックミラーでチラリと私を見た後すぐに前を向き直して口を開いた。

「え?ああ。…リョーマよ。」
「…え?」
「確かに申請書は私が持ってきたものだけど、彼ね、珍しく自分で書いて自分で提出したの。」
「そう…だったんですか。」
「ゲストパスってのは誰でも彼でも入れちゃ困るから発行数に限りがあるのよ。大体50位くらいから優先的に発行できてね。…だからリョーマ、名前が来る年に間に合って良かったって言ってたわ。あなた愛されてるわね。」
「…」

静かに微笑む彼女はクールにハンドルを切った。言葉を飲み込めないまま車は進んでいく。会場に近付くに連れ、パークの辺りに大勢の観戦客が歩いている様子が見えた。練習日とは比べ物にならない賑わいだった。その人だかりを眺めながら、車は駐車場に向かう。車を停め、マネージャーさんの案内で私は裏口から会場に入った。

「リョーマは不本意だろうけど、もしそのパスのことで誰かに何か言われたならチームスタッフって名乗ればいいわ。じゃ、この先行けばコートの案内出てるから。彼の試合、楽しんで。」






全豪オープンの会場は、練習日に来た時よりずっとずっと活気に溢れていた。外周の熱気にも驚いたがバックヤードの雰囲気にはまた別の意味で圧倒された。張り詰めた独特の雰囲気を肌で感じる。

たくさんの選手やスタッフが早足に交錯していく。練習日はリラックスした顔を見せていた選手たちだが、一転その表情は緊張感を孕み、イヤホンをつけて集中を高めたりポケットに手を入れて鋭い目を中継モニターに向けたりしていた。

試合前にリョーマに会えるかなと辺りを見回しながら進むも広い場内ではそう簡単に会えるわけではない。でもきっとリョーマもまた集中したいだろうからこちらから連絡はしないことにした。時計を見る。まだ試合開始まで時間があるので観戦中の飲み物でも買いに行こう。リョーマから「パスがあれば選手エリアのラウンジや食堂にも入れる」と言われたけれど流石に気が引けて、私はバックヤードを抜け、会場内のフードエリアにいくことにした。




コーヒーショップでテイクアウトをするために列に並んだ。すると聞き覚えのある声が降ってきた。

「あれ、名前?」
「…?あ、不二先輩!」

不二先輩はひらりと手を上げ、当時のままの穏やかな微笑みで私を見た。

「何してるのこんなところで…なんて、聞くのも野暮か。越前の応援?」
「はい、今ツアーに同行していまして。」
「へえすごいね!ここだけじゃなくて他の大会にもついて行くってこと?」
「そうですね、まずはこの一年間だけですけど。」
「すごいや。頑張ってるね。」

偶然にも出会えた見知った顔に、ホッとした。リョーマ以外の日本語を聞けたのが随分久しぶりな気がする。
注文の列が進むと、不二先輩は「ここは僕が」とスマートに支払いをしてくれた。ドリンクのカップを受け取る。

「ありがとうございます。…不二先輩も観戦ですか?お一人で?」
「幸村と白石が一緒だよ。向こうで席取ってる。」
「珍しい組み合わせですね。」
「そう?U17の合宿で相部屋だったんだ。そこで気が合ってね。」

立ち話をしていると、幸村さんと白石さんがこちらに気付いて手を振ってくれた。取っていた席が4人で座れるとのことで、相席させてもらうことになった。

「誰かと思ったら名字さんか。久しぶりだね。」
「ご無沙汰しています。中学以来ですね。」
「びっくりしたわ。不二がナンパしてるんかと思って。」
「ふふ。まあ、でも…ナンパかな?」
「やめてくださいよ。」

不二先輩はあの頃と変わらない掴みどころのない調子で冗談めかした。

「僕たち手塚の試合を見てきたところでね。名前は見た?」
「見てないんですよ。リョーマのパスで彼の試合は入れるんですけど…いいなあ、どうでした?」
「凄かったよ。相変わらず。」
「名前ちゃんからお願いしたら手塚くんチケット取ってくれるんちゃうん?」
「ですかね…中学の時ドイツに向かわれてからお会いしていないので、烏滸がましく思えちゃいます。」
「そんなことないよ。手塚、前に会ったとき名前のこと気にかけてたよ。‘’越前がついているなら心配無用だろう”なんて濁してたけど。手塚にとっても君はいつまでも可愛い後輩なんだろうね。」
「…心配って?」

それが何を指すのかはなんとなく察してはいたけれど、思わず聞き返してしまった。不二先輩は困ったような視線を巡らせたが、観念したように口を割った。

「………名前、週刊誌とかネットとかでたまに話題になるから…。僕たちの周りでも結構ザワザワしてたんだけど、結局はみんな、名前には越前がいるから大丈夫って話に落ち着くんだけどね。」
「もしかして、今回のツアー同行って、そこらのことも絡んでいるん?」
「そう…ですね。色々あって、流れで。そういうのも含め、ゆっくり考える一年にしようかなと…」

「ゆっくりねえ。そう上手くいくかな。」

話し込んでいると、それまで黙って話を聞いていた幸村さんが腕を組んだまま口を開いた。

「彼について行くんだろう?プロの活動ってかなりハードだよ。練習や試合内容はもちろんだけど、とにかく物理的な移動がかなり多い。移動で疲れて時差で疲れて、回復した頃には次の国へ…の繰り返し。いけるのかい?」
「…ご心配、ありがとうございます。」
「心配じゃないよ。まあただの老婆心さ。」

幸村さんは涼しそうな、それでいて含みも隠さぬ物言いで私を見た。分かってる。それでもなんとかするしかないし、私は私にできることをやるだけ。

「こらこら、意地悪な言い方せんといてや幸村くん。まあ名前ちゃん大変やろうけど、ぼちぼちで頑張りや。…あ、結構前、財前が振られた言うてた四天の飲み会、名前ちゃん来てくれるん俺らまだ諦めてないからな?」
「なんでしたっけそれ。」
「ぐ…っ、」
「君も振られたね、白石。」



* * *



リョーマの試合の時間が迫り、名前はコートへと向かった。その背中を見送り、不二らは息をつく。

「それにしても彼、思い切ったよね。好きな女の子を連れて世界を飛び回るなんて聞こえはいいけど、気にかけることが一つ増えるわけだ。何より本筋はテニスだしね。」
「大事にしてるんやねえ。微笑ましいわ。」
「でも、いつまでも旅行気分でもいられないだろう。俺なら日本で待っていてくれた方が気が楽だって思ってしまうけどね。」
「ふふ。幸村はいつまでそうやって越前に張り合うつもりだい?」
「別に張り合ってるわけじゃ…。」
「それでもつれていくって越前は言ったんだ。大丈夫だよ。」



* * *



通路を抜けてリョーマの初戦が行われるアリーナに向かった。パスを首からかける。行きの車で聞いた話を思い出す。これ、リョーマが申請してくれたんだ。印字されている自分の名前と、リョーマの名前の並びを改めて見る。

「ついてきて」と言ってくれたのは彼だったけれど、こうして形にされるとその重さに胸が締め付けられるような感覚がする。これを彼がどんな気持ちで作ってくれたのか。私がリョーマのことを知りたいように、リョーマだって私に知ってほしいと思っている…と捉えていいのかな。

定刻になった。
歓声の中、リョーマがラケットバッグとダッフルバッグを両肩で担ぎながらコートに現れた。重たそうなそれらをベンチに下ろす。私はスタンドからそれを見ていた。観客席は熱気に包まれ、コートの脇の区画にはミーティングで会ったリョーマ陣営の皆さんがまとまって座っていた。きっとあの辺りがチームスタッフ用のエリアなのだろう。

オフシーズンの約2ヶ月とそれから同行を始めての数日、私たちは毎日そばにいた。手を伸ばせば触れられる距離にリョーマはいて、私に優しくしてくれた。綺麗に整備されたグリーンのハードコート。開かれたアリーナの天井から降り注ぐ日差しが彼の瞳に反射する。その煌めく目がネットの向こう側を見据えた。試合が始まる。



ボールをラケットで弾く音、シューズがキュッとコートに滑る音、力んだ声、客席のうねるような感情の波。



左右前後にと高速に行き来するボールを目で追いながら考える。
リョーマとは月日だけでみたら長く付き合っているけれど、私はいつもその存在をどこか遠くに感じていた。リョーマはどんどん有名になって私だけがぽっかりと置いていかれているようだった。誰に言われたわけでもなく、ただほんのりとした後ろめたさと劣等感がある。でも、私、あの人と付き合ってるんだよね、試合を間近で見て考える。

“名前は俺の彼女じゃん。”

オーストラリアに着いた日にリョーマが言ってくれたその言葉が今でも新鮮に響いている。人混みの中で私の手を引いてくれた。
他の誰でもないリョーマが私を認めてくれているんだ。




全豪オープン初戦、リョーマは勝った。
歓声に応えながらコートを去る後ろ姿を見送り、私も客席を抜け出した。少しした頃にリョーマから連絡を受け、選手エリアのロビーで待ち合わせをした。やっと顔を見れた。私が何を言うより早く、リョーマは私の元へ来て覆い被さり、強く抱きしめた。

ここは国際的な場で、日本とは違ってこんな場面は何も珍しいものではない。選手たちは顔見知りがいれば出会い頭に握手やハグを当たり前にするし、勝利を収めればチームのメンバーと熱く抱擁し合うこともある。だから私たちがこうしていることだって何もおかしいことじゃない、私は自分にそう言い聞かせて、今はただ試合後の高揚した心を分かち合う。

「お疲れ様。かっこよかった。」
「名前のおかげ。」

リョーマは短くそう言って、私の頬にキスをした。その後すぐにマネージャーさんの車が到着し、私たちはホテルに戻った。




会場の喧騒から離れ、静かな部屋に二人きり。リョーマがシャワーを浴びる音を聞きながら、初戦を勝てて本当に良かったと改めて思った。私に何ができるかはまだ分からないけど、でももし、ここで負けてしまったとしたら、その敗因の一つは私にもあったかもしれない。私がいることで大なり小なりいつものツアーとリズムが違うはずだから。リョーマは絶対に私を責めないけれど、この先続く新しいシーズンに、良いスタートが切れて心の底から安心した。

バスルームの扉の開く音がした。

「リョーマ、おいで。」
「ん。」

リョーマがシャワーから出てきたので、私は彼を手招きした。今度は私が、とドライヤーを掲げると、リョーマは笑って大人しくソファに座った。彼は気持ちよさそうに目を閉じた。

「はい、できた。」

電源を切ったドライヤーを脇に置き、正面に回って綺麗な黒髪にもう一度触れてみる。そして次に頬に触れてみる。瞼に触れてみる。額に、耳に、顎に、その輪郭に指を這わせてみる。綺麗な顔。昔からリョーマは綺麗な顔をしていた。随分身長も伸びて顔立ちも大人っぽくなった。

「何…?」

リョーマはしばらくされるがままになっていたけれど、遂にはくすぐったそうに笑って首を傾げた。

「いや…私の、恋人なんだなあ…と思って。」
「そうだよ。俺は名前のものだよ。」

唇が重なる。何度してもリョーマとのキスは新鮮に心が震える。リョーマが顔を上げて離れたので、その首に腕を回して引き寄せ、こちらからもう一度口を寄せた。唇が離れる頃、リョーマはフ、と笑って私の腰を引き寄せる。「今日、いいの?」と私が聞けば「次の試合までまた日数空くからいい。ていうか無理。」そう言ってリョーマは私の首筋に甘く噛みついた。












初戦の熱気が冷めやらぬ中、その数日後行われた二回戦もリョーマは勝ち進んだ。しかしグランドスラムとは世界中のトッププレイヤーが集結する大会。その後行われた三回戦でシード枠の上位選手に当たり、フルセットの末、惜しくもリョーマは敗退した。

試合を終えて汗を拭いながら、リョーマは淡々とベンチの整理をしてコートを去った。
中学時代、リョーマは公式戦で負け無しだった。だからリョーマが負ける試合を、中継を除き、私はこの目で初めて見た。

リョーマ、大丈夫かな。ロッカーに向かう背中を見送る。ランク50位にして三回戦出場のベスト32は好成績なのだと思う。表情を見るにリョーマは割り切っていて次の大会に心が向いているようにも見えた。格上と戦い揉まれる世界、心が強くないときっと生き残れない。でも、悔しいよねリョーマ。

観客席を抜け、ロビーでリョーマの戻りを待った。『コーチと話すから少し遅くなる』そう連絡が入って、『わかった。待ってるね』と返す。一応持ってきたパソコンも今日ばかりは開く気にもならず、ベンチに座り窓から見える夏空をぼんやり眺めた。

中学のときテニス部のマネージャーをしていた。そのときの私は選手たちにどんな言葉をかけていただろう。思い出す。私に求められていたことは励ましでも慰めでもない。脱水にならないように、汗で体を冷やさないように、怪我をしたなら悪化しないように。ただ「次のため」私にできることを探していた。

『どこ?』
しばらくした頃、スマホの画面が光りリョーマから連絡が来る。そろそろこちらに来るのかもしれない。私は会場の自動扉を抜けて外に出た。この強い日差しにも、もう10日程もいれば慣れてしまった。『エントランスにいるよ』と返信し、会場前に停まっていたキッチンカーでグレープソーダとアイスコーヒーを注文した。

「何してんの?」

丁度店員がドリンクを作り終えた頃、リョーマが私を見つけてやってきて、キッチンカーのカウンターを覗いた。

「お買い物。こっちがリョーマの。ファンタとは違うかもしれないけど美味しそうだったから。」

二つのドリンクを店員から受け取り、ひとつリョーマに差し出した。リョーマはそれを受け取るふりをして、私の両手が塞がっていることをいいことに、額にキスをした。

「っ!」
「サンキュ、名前。」

今度こそカップを受け取るとリョーマは駐車場へと歩き出した。その背中を追いかける。惜しかったね、良い試合だったね。そう言いたいのを堪えてコーヒーを流し込んだ。

マネージャーさんの車に乗り込む。走り出した車内でしばらく無言が続いたけれど、ソーダを一口飲み込んでリョーマが口を開いた。

「どうする?ホテル早めに払ってもいいけど、もう少しオーストラリアにいる?時間あるから観光してもいいし。」

リョーマは平然とした調子で私を見た。疲れも悔しさも顔に出さない。そんなわけないのに。

「チェックアウトしたとして、次はどこにいくの?」
「アメリカの家。次の大会まではそこで調整かな。」
「じゃあアメリカ行こ!」

私は笑顔を作ってリョーマの顔を見た。そう。今大事なのは「次のため」なにをするか。

「本当にいいの?」
「オーストラリアはきっとまた来れるし、家ってリョーマの育ったロサンゼルスの家だよね。早く行きたい。」
「そ。じゃあそうしよっか。」

リョーマはようやく少し笑ってくれて、マネージャーさんに「すぐ帰るから飛行機押さえといて」と簡潔に伝え、彼女も慣れたように了承した。

大会が終わったら次の場所。そしてまた大会。落ち込んでもいられない。私はリョーマに何ができるかな。

私たちは冷たいドリンクを飲みながら、暑いメルボルンの街を車窓から眺めた。


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