ディア・プランビー
17.休暇ホテルの部屋に響くパソコンのキーボードを叩く音、漂うコーヒーの香り。これまでの俺のツアー生活には無かった要素だ。
昨日、今年の全豪オープンが終わった。三回戦での敗退。世界中にはまだまだ強い奴がたくさんいて、負けることは特別なことじゃない。優勝者以外みんな負けるんだ。でも。もう少しあそこで足が動いていれば。あのサーブだってもっといいところ狙えた。返球コースを予測されたリターン、他にも手があったはず。頭の中はやるべきことでいっぱいだった。
プロになってから、人からよく「ツアー生活は孤独ですよね」なんてことを言われた。孤独?テニスは楽しい。これは自分が好きで選んだ道だ。体力的にキツいことは当然あるし、負ければ悔しい。でも、そういうもんだ。もっと強くなって次のコートに向かうだけ。
そう思ってた。
全豪が一区切りついたから、もうここでやることはない。今日はゆっくり起きるつもりだった。夕方のフライトに間に合えばいい。アラームをかけずに目を覚ますのは久しぶりで、耳に入ってきた音と鼻を掠めた香りに、自然に目が開いた。窓際で名前がパソコンを開いていた。
ぼんやりとした頭でしばらくそれを眺めた。彼女は湯気のたつカップを口元に寄せながら画面を見つめていた。練習からホテルの部屋に戻ったときによく見た光景だった。このテニス漬けの毎日に彼女がいるというのは不思議な気分で、毎日新鮮に驚く。
「!」
ふと視線を上げた名前がこちらを振り返った。目が合うと名前はふわりと笑った。
「起きてたの?おはよう。」
「………おはよ。」
名前が笑うといつも心臓が掴まれたような感じがする。
人が言う孤独ってものが何なのかは未だにピンときていないけれど、彼女がいることで心の深いところが満たされているのは確かだった。
俺が眠っていたから気を遣ってくれていたのだろう、閉めていたカーテンを名前は開いた。もうすっかり日が高く、窓際に降り注ぐ日差しに名前のシルエットが浮かんだ。
「今何時…?」
「もうすぐ10時だよ。」
「朝食の時間終わってんじゃん…ごめん、名前食べてないよね。」
「大丈夫だよ、私もさっき起きたところだから。ルームサービス頼む?」
多分、今までだったらそうしてた。
一人で過ごしていた頃は試合が終わった次の日は気が済むまで眠って、フライトの時間までホテルでだらだらと過ごした。
メルボルンに着いてからの毎日はホテルと会場の往復で、食事も睡眠もテニスのための生活。
彼女もそれに合わせて動いてくれた。俺は助けられていた。名前は日本を出発してから文句の一つも言わず、昨日だって観光なんかせずにすぐにアメリカに行こうと言ってくれた。
「…名前、少し出かけようか。」
ホテルを出ると天気が良かった。
メルボルンの街の中にはヤラ川という穏やかで大きい河川が通っていて、その川沿いにはレストランやカフェなどが並んでいる。至る所にアーティスティックなオブジェが点在し、近くには美術館もある。いくつもの高層ビルが水面に映り都会的だが、植栽もされていて程よく緑も見える。
川沿いの遊歩道を名前と歩く。ウォーキングしている地元の人たちや多くの観光客とすれ違う。街路樹の切れ目で時折名前が眩しそうに日差しを手で覆った。
道沿いに、開放的なギャラリーのような雑貨屋を見つけた。「入ってみる?」と名前を振り返れば、「うん!」と嬉しそうに微笑んで肩を寄せてきた。そんなことでドキリとしたりする。毎日一緒にいるのに、こうしてテニスから切り離された静かな日常を過ごすとまた名前のことが違って見えて、街中で普通の女の子みたいにしている彼女がとても愛おしく感じた。
明るい店内をゆっくり見て回る。ふと思いついて、名前を手招きした。ディスプレイに並ぶサングラスを一つとって、名前の顔にかけてみた。色の薄いレンズのそれを彼女は照れくさそうに押さえて、「どう?」と首を傾げる。
「いいじゃん。」
「リョーマもつけてみて。」
「ん。貸して。」
「ふふ。似合ってる。」
「じゃあ一緒の買おうか。せっかくだし。」
店内でタグを切ってもらって二人で同じサングラスを着けて店を出た。レンズに透けて見えるお互いの目を見て笑い合った。
少し歩いた先にオープンテラスのカフェを見つけた。どちらかともなく店の前で立ち止まり、店先に置かれたメニューの看板に目を通す。
「ここにしようか。」
「うん、野菜も多そうだしここがいい。」
「そんなこと気にしてたの?今日くらいいいのに。」
やけに真剣な様子がおかしくてつい笑ってしまった。真面目に見ていると思ったらそんなこと。名前は日本にいた頃から難しそうな料理の本をよく見ていた。多分俺のために。試合が終わったっていうのに食事の内容を気にしてくれているのだから、彼女の誠実な気持ちに胸が温かくなる。
ホットサンドやグラノーラ入りのフルーツボールを注文すれば、たくさんの野菜が盛り付けられた華やかなワンプレートが運ばれてきた。カフェオレは大きなカップに注がれてラテアートが施されている。名前は目を輝かせて料理にカメラを向けていて、その楽しそうな様子に、ホテルに閉じこもらず連れ出してみて本当に良かったと思った。
ブランチを終え、ホテルへの帰路を進んだ。そろそろLAに帰る支度をしなくては。川を渡る大きな橋を歩きながら、名前は時々立ち止まって街の風景を写真に収めていた。今日も相変わらず日差しが強くて、メルボルンは毎日暑かった。川の向こうから吹く風が名前の髪を揺らす。
「…メルボルン楽しかったな。」
ぽつりとそう言ったので目を見張ってしまった。この約二週間。俺が毎日ホテルと会場の往復でテニス漬けの毎日だったように、名前だってここに来てからほとんど外には出ていなかったはずだ。ほんの数時間こうして街を歩いたことでそれが埋め合わせになるとも思っていないし、俺のために言ってくれているのかもしれないけれど、その素直な言葉が胸にスッと落ちてきた。
「名前。」
「ん?」
カシャッ
水面を眺める名前を呼び止めて、スマホを向けてみた。振り返った彼女はシャッター音に目を丸くして、俺を見る。
「え、今撮った?」
「さあ?」
「待って、絶対変な顔してる!」
「撮ってないってば。」
慌てた様子の名前がおかしくて俺は笑ってしまって、でも絶対にこの写真は消させない。無防備にこちらを見た表情がとても可愛かったからだ。
「だったら撮り直すから。名前のスマホ貸して。」
「いいけど…」
「ほら笑って。」
街並みをバックに、名前の腰に手を回して二人で画角に入った。お揃いのサングラスを掛けて撮ったセルフィーがなんだかくすぐったくて、でもなんだか切なくもなった。名前がツアーに同行してくれるのはこの一年だけだ。次またメルボルンに来る頃には、名前はここにいないんだな。
名前にスマホを返せば、撮れた写真を見て顔を綻ばせた。
「なんか嬉しい。意外と二人でって撮らないもんね。」
「じゃあこれから行く先、全部で撮ろうよ。」
「それいいね。思い出になりそう。」
サングラスをかけたその横顔から覗く瞳が、きらりと光ったように見えた。なんだかこちらもつられそうで、先を歩いて誤魔化した。これをかけてて良かったと思った。
「何ぼーっとしてんの。飛行機遅れるよ。」
「待ってリョーマ!」
すぐに追いついたそのひと回り小さな手を取って歩いた。
全豪オープン。負けて悔しかった気持ちが消えるわけではない。でも名前がいる。それだけで心が強くなれた。きっと名前のことだから何か特別なことをしなくちゃなんて考えているのかもしれないけれど、違うよ。名前。ただそばにいて、笑ってくれてるなら、俺はそれだけでいいんだ。
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