サンダルウッドの情念
10.猫セラピー
「……マ、リョーマ、」
うっすらと。遠くで声がする。
優しい声。ずっと聞いていたい。…
「リョーマ、起きて。」
「ぅわ、」
え。
片目を開けるとこちらを見下ろす目と目が合って、あれ、なんでここに、
「おはよう。学校遅れちゃうよ。」
名前、
「な…」
「寝ぼけてるの?おばさん、ご飯できたって。行こう。」
制服姿の名前が、俺の部屋にいる。ああ、そっか、そういえば昨日から名前は…。
「起きた?」
「…起きた。」
「ん。早く着替えて。」
「…名前もしかして今日部活出るの?」
「うん。大丈夫だよ今日は放課後だけだし。竜崎先生にも許可いただいたから。」
いつものような落ち着いた口調に、優しい笑顔。昨日はさすがに心配だったけれど名前なりに気持ちの整理がついたのかもしれない。
行くなと言ってもきっと行く。無理するなと言ってもきっとする。顧問のおばさんも多分それを分かっている。分かっていてなお首を縦に振るのはきっと同じ気持ちだから。
「行こうか。」
「うん。」
全国に行きたい、昨日名前が言ったことをもう一度思い出す。俺も。テニスでは誰にも負けたくない。
「おー、名前、越前!」
しばらく歩くとキィと自転車のブレーキ音がして顔を上げた。
「おはよ桃。」
「はよっす。」
「珍しいじゃねえか、お前ら家近いんだっけ?」
「まあね。」
今までも寺を挟んだすぐ隣に住んでいたので通学路は一緒だったけれど名前の方が早起きなので時間帯は被らなかったのだ。桃先輩が珍しいというのも肯ける。質問をはぐらかすと名前も涼しい顔をしていた。
「名前大丈夫かよ?」
「うん。たくさん寝たら良くなった。」
「後ろ乗るか?越前は走れよ。」
「桃先輩なら三人乗りできるんじゃないスか。名字先輩と俺は後ろね。」
「お前可愛くねえやつ!」
とはいえ今日も天気がいいし昨日の今日で不安が残るので名前を桃先輩に預けて先に行ってもらった…はいいけれど。桃先輩に掴まる手とか、風に煽られるスカートなんかを見ると、次はやっぱり三人乗りかな。
校内ランキング戦2日目。放課後、テニスコートに向かうと昨日名前が座っていた受付スペースにタープテントが設置されていた。暑さ対策らしい。へえ、気が利くじゃん。名前は既に着替えを済ませており、作業の合間に出会う部員一人一人に声をかけていた。
「部長。」
「名字、体は大丈夫か。」
「心配おかけしてすみません。」
「俺たちも気が付かなくてすまなかったな。」
「いえ、とんでもない。不甲斐ないです。」
「乾がスコア集計係の当番表を作ったそうだ。あとで目を通してくれ。」
「ありがとうございます。」
笑顔で穏やかに話す名前が深く頭を下げたとき、表情が、一瞬曇ったのが見えた。
今日は乾先輩との試合。乾先輩は名前のことを気掛けて当番表を作ってくれた人。そういう作業は俺にはできないから純粋に凄いと思うが、それとこれとは別。
「青春学園に入って良かったよ。色んなテニスを倒せるからね。」
正確で無駄のないデータテニス。
こちらの手の内は把握されている。…でもそれはあくまで『乾先輩が知っていることだけ』だ。
データで来るなら、その上を行くまでだね。
最近やっとできるようになったステップがある。
「できれば温存しておきたかったね。全国大会まで!」
「お疲れ様。レギュラー入り内定おめでとう。」
「ん。」
タオルを差し出されたので肩にかけた。受付には今海堂先輩が座っている。
「休憩中じゃないんスか、名字先輩。」
「…んー。私、ほんとは全部ひとりでやりたいんだよね。じゃないとマネージャーなんていらないじゃん。」
「え?」
「なんてね。」
「…なんか怒ってる?」
「どうして?」
名前は笑顔のまま首を傾げた。どうしてそう思ったのかと聞かれると勘でしかないけれど。
「なんとなく…。」
「変なの。ほら早くスコア報告行ってきな。」
両手で背中を押された。怒ってる、いや怒っているというよりかは…。振り返った頃には名前はまた別の部員にドリンクを配っていた。
今日のスケジュールは一通り終わり、制服に着替えて部室を出たが名前とはタイミングが合わず一緒には帰れなかった。
帰宅するといつもみたいにカルピンが玄関まで迎えに来る。抱き抱えてリビングに進むと一足先に帰宅していたらしい名前がそこにいて。今朝も思ったがやっぱりまだ慣れない。さっき部活で会ったばかりなのになんだか不思議な感じがして。
「おかえりなさい。」
「…ただいま。」
本当に一緒に暮らすんだなあと、今更じわじわと実感した。
「ほあら」
「あらカルピンもただいまなの?」
「んぁらー」
「うんうん走って玄関まで行ったもんね。えらいね。おかえりカルピン。」
名前はこちらにやってきて腕の中にいるカルピンの頭をわしわしと撫でた。こいつ喉なんて鳴らしちゃってさ。
「機嫌良いじゃん。」
「うん、リョーマが帰ってきてくれて嬉しいんだよねカルピン。」
「そっちじゃなくて。」
「?」
カルピンを名前に預ければ、名前はカルピンの背中に顔をうずめた。
「元気そうだね。」
「…そうかな、そうかも。」
「いいんじゃない。」
鞄を置きに自室に向かうとき横目に見れば今度はお腹に頬擦りしていた。カルピンは気を許しすぎ。
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