サンダルウッドの情念
9.お隣さん



名前を俺の父親の車に乗せて見送ってからコートに戻った。様子を見にきた顧問のおばさんが走り去る父親の横顔を見て数回瞬きをしたが「じゃあ私は職員室に戻るから」と背を向けた。

今日の試合は全て終わったようで1年が撤収作業をしていた。倣ってコートブラシを手に取る。

「あ、リョーマくん!名字先輩大丈夫だった?!」
「さっき帰ってった。」
「そっかあ。しかし倒れてるの見えたときにはマジで血の気引いたよなあ。」
「うん…2、3年生たちもかなり慌ててたよね。」
「ビックリしたといえば、越前が海堂先輩に勝っちまったのも驚きだよな。」
「レギュラーだもんね倒したの。」
「僕は信じてたよ。」

わいわいと呑気な会話もあまり耳に入ってこない。
電話をした時も名前を迎えに来てくれた時も父親は珍しく軽口を叩かなかったからきっとうまくやってくれているのだろうが。

「どうでもいいけど、早く掃除終わらせない?」
「ねえねえリョーマくんは小さい頃からみっちりコーチつけてやってたんでしょ?」
「強いもんね。」
「負けたことないんじゃない?」
「…毎日負けてる。」

手を止めて取り囲んでくる堀尾たちは口々に誰に?!とかプロになれるよ!とか言ってくる。あんま興味ない。そう答えるとまた大騒ぎ。

「やっつけたい奴がいるんだよね、テニスで。」

電話口で俺の話を笑わずに聞いてくれてた父親を思い出す。任せろ、と言ったのだった。

「…なんてね。じゃ、ソージ終わり。お先に。」

名前の泣き顔が頭から離れない。
名前にもう泣いて欲しくなくて、でも今は大人に頼るしか手がないことが悔しい。






急いで着替えて家路に着く。
息を整えて名字と書かれた表札の家のチャイムを鳴らした。

「俺だけど。」

恐る恐る玄関の扉が開いて、名前が顔を出した。

「親父から聞いた?」
「…うん。」

少し話がしたかったので土間にラケットバッグを下ろして玄関の上がりかまちに腰掛けた。

「あの、よかったら奥上がって」
「いいよここで。急に押し掛けちゃったし。それにすぐ出るから。」

名前は目を泳がすと観念したように隣に座った。罰が悪そうに下を見ていた。静かだ。とても。名前も、この家も。

「今まで家のこと全部一人でしてたの?」
「…」
「ちゃんと食べてた?」
「…」
「……責めてるわけじゃないんだけど。」

膝に置かれた名前の手の甲に、ひとつふたつと涙の粒が跳ねた。
声もなく俯く彼女はいつもと別人で、でもたぶんこっちが本当の名前。

「俺、いやだよ。名前が一人でいるの。」

張り詰めた静寂に、自分の心臓の音がやたらと煩い。





名前が落ち着いた頃、連れ立って我が家へ帰宅した。音を聞きつけたカルピンが走ってきてほぁらと言う。父親から聞いたのか、母親もいとこの菜々子さんも驚いた顔を見せずに名前を迎え入れた。

「自分の家だと思って手足伸ばしてね。」
「ありがとう、ございます。」
「リョーマだけじゃちょっとあれだけどよ、まあうちには菜々子ちゃんもいるしな。菜々子ちゃんはな近くの大学に通っててうちに下宿してんのよ。」


今日から名前はここで生活する。

二階に空いてる部屋があったので今日からそこが彼女の部屋となる。
先程電話で父親に名前のことを話したとき、父親はあっさりと言ってのけたのだった。「じゃあうちに住めばいいじゃねえか」と。

夕食までまだかかるから部屋で休んでいてねと母親が言う。名前が口を開いたのを小突いて黙らせて、名前の荷物をとって二階に上がった。

「こっち。」
「うん。」
「気遣わなくていいから。」
「…ありがと。」
「じゃ、俺こっちにいるから。」
「ここリョーマのお部屋?」
「そ。」
「お隣さんだね。」

あ、やっと笑った。つられてこちらも笑うと名前はもう一度小さく笑い、自室へと入っていった。



何かをしていないと落ち着かないのでゲームの電源を入れた。キャラのスペックに文句を溢すと、コン、と窓が鳴った。膝に乗っていたカルピンを下ろして窓を開ける。

「何?」
「リョーマ!メシの前に一汗かこうぜ。今日は片足一本…でどうだ?」
「だからハンデはいいよ。」

やーなオヤジ。

何か言われるかと思ったけれど、いつものようにただボールを追いかけて日が暮れた。
放たれた打球に合わせて軽く両足でジャンプ。ボールを行方を見極める。着地した軸足をバネに、反動で次の一歩を出す。
いつもは追いつけない父親の虚をつくドロップボレーに今日は手が届いた。

「できたじゃねーの。」

珍しく父親が俺を褒めた。





夕食をみんなで囲み、順番で風呂に入った。名前が風呂に入っている間に母親に頼まれて名前の布団を敷いた。
急なことで今日は着替えなどの最低限のものしか持って来れなかったので、明日から少しずつ名前の荷物を運ばなくてはいけない。

それにしても慌ただしくてあまり考えていなかったがひとつ屋根の下に名前がいる。そう考えるとなんだか落ち着かないものだ。
自室に引っ込んでしばらくした頃に控えめなノック音が聞こえた。

「…はい。」
「リョーマ、入っていい?」

訪れたのはやはり名前だった。名前はそう言った割に中には入らずドアを少しだけ開いて隙間からこちらを伺っていた。

「なに?」
「あのね、ありがとう。お布団も…他にも、色々。」
「別に。なんか少しは元気になったんじゃない。」
「うん、お腹いっぱい食べたからかな。…久しぶりにご飯が楽しかったよ。」
「そっか。」

「ていうか話すなら中入れば。…あ、」

少しの隙間で話す名前に見かねてドアを大きく開けば、あ、そういうこと。

「あ、え、っともう寝るからいくね。おやすみ。」
「う、うん。おやすみ…。」

制服姿でもジャージ姿でもない。名前の無防備な姿に顔が熱くなるのを感じた。



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