ディア・プランビー
19.未練


2月上旬に開催されるATP500のロッテルダムオープンに出場するべく、私たちはオランダにやってきた。グランドスラムよりは規模のやや小さい大会だけれど、強力なヨーロッパ勢が多く参加する大会だ。

10時間ほどのフライトでアムステルダムの空港に到着し、レトロで色鮮やかな外壁の街並みを抜け、タクシーで移動すること1時間。大胆な曲線を描く近代的な建造物が見えてくる。ようやくロッテルダムに到着した。

ロサンゼルスから移動したばかりの体内時計は朝方の感覚だけれど、8時間の時差があるため現地時間はもう正午を過ぎている。一日が早く終わってしまう。夜に眠れないということがないように、リョーマは空港から大会会場に直行し、そのまま練習を始めて汗を流した。

私はリョーマの調整が終わるまで、全豪オープンのときと同じように彼の練習を眺めたり、会場の中を歩いてみたりした。ロッテルダムの気温はロサンゼルスよりも低く、0度近い日が続くそうだ。練習も試合も、全て屋内で行われる。
空の見えない室内コートはコンパクトでどこか閉鎖的にも思えて、全豪オープンの明るく賑やかな雰囲気とはまた違って見えた。

今回も用意してもらったゲストパスを使ってスタッフエリアでリョーマの戻りを待った。スマホの画面をスクロールしたときに目に飛び込んできた華美な色合いの画像。チョコレートだった。もうすぐバレンタインデーがやってくる。日本ではバレンタインに向け各企業が商戦を繰り広げていた。

バレンタイン、か。
毎年この時期はリョーマは日本にいなかった。好きな人にチョコを渡すのだと盛り上がるクラスメイトがいつも羨ましかった。でも、リョーマは私たち同世代がそんな話題で浮かれている中、こうしてコートで戦ってたんだよね。

「何見てんの?」
「びっくりした、お疲れ様。練習終わった?」
「うん。…それチョコ?」
「あー…えっと…」

リョーマは私のスマホを覗き込む。
私も恋人にチョコレートを贈ってみたかった。でもそれは日本独自の文化だし、それにリョーマはあまりチョコは好きではなかったはず。
口篭ってしまうと、リョーマは自身のスマホを操作して「名前好きだもんね。ホテルの近くにショコラティエあるみたいだから荷物置いたら行こうか」と話を進めてしまう。そういうことじゃないんだけど、とは言えなかった。リョーマが優しさから言ってくれていると分かるからだ。

ホテルのチェックインを済ませ、街に出た。日が傾いてきてますます寒く、互いの手の平から暖をとって歩く。
ショコラティエは夕暮れの街明かりを映してショーケースがキラキラと光っていた。店内には甘い香りが漂い、光沢のある様々な形のチョコレートが宝石みたいに並んでいる。

「名前どれにする?」

店の中を眺めながらリョーマは私を振り返った。リョーマの分も選んだら食べてくれるかな。でも大会近いし脂質は…。顔を上げてリョーマを横目に見れば、目が合って、次には微笑んでくれた。

「俺のも選んでくれるの?」
「でもリョーマ、チョコってあんまり…」
「バレンタインでしょ。食べるよ。」
「気付いてたの?」
「名前の分も俺が選んでいい?」

リョーマは店員を呼び止め、注文を始めた。びっくりした、この季節は帰ってくることはなかったのにバレンタインのこと知ってたんだ。私もリョーマに倣ってショーケースの中のそれをいくつか指をさす。二人で選んだチョコレートを店員は一つの箱に詰めて赤いリボンを掛けた。私たちは手提げ袋を受け取って店を後にする。



ホテルに戻ってソファに並び、その箱の紐を解いた。

「本当なら俺も名前に花とか贈りたいんだけど、ホテル暮らしじゃあ邪魔になるからね。今年はこれで。」

リョーマが花束を抱えて現れる想像を少しして胸がドキドキした。確かに移動を考えると今の生活では難しいかもしれない。お花もきっと素敵だけれど、何よりこの季節を一緒に過ごせることが嬉しい。

蓋を開ければ艶やかなチョコレートたちが並んでいる。リョーマはひとつそれを摘んで私の口元に運んだ。

「はい、名前。ハッピーバレンタイン。」
「ふふ、ありがとう。」

口の中に甘みが広がり、リョーマの指が私の唇を優しくかすめて離れていく。

「チョコを贈るのって日本だけなんでしょ?リョーマ知ってたんだね。」
「桃先輩が自慢してきたからね。俺だって欲しかったのに。」
「え、それいつの話?」
「中学の頃。」
「中学…それって部活じゃん!義理だよ。みんなに配ったの。しかもコンビニで買ったファミリーパックの安いやつ。」
「でも俺もらってない。」
「だってリョーマそのとき日本にいなかったもん。」

そんなことを気にしていたなんて意外で、おかしくて笑ってしまった。リョーマも冗談半分に拗ねてみせながら、でも今度は少し真剣な目をして、リョーマのために選んだはずのチョコレートを一つとってまた私に食べさせようと口に寄せてきた。

「これ、リョーマの分だよ…?」

そう伝えるも唇を割るように口の中に押し込められた。やっぱり大会前だし食べられないのかな、なんて思っていたら次には肩を抱かれ、リョーマの顔が近付いてきた。

「…っ!」
「ごちそうさま。」

リョーマの舌が、私の口の中の、溶け始めたチョコレートを絡め取っていった。

「…これで許してくれる?中学のときのこと。」
「まだ許せないかも。」

悪戯っぽく目を細める、リョーマはまた箱から一つチョコレートを取り出した。








ロッテルダムの大会はグランドスラムの100人超の参加枠に対し、32名。だから毎日のようにリョーマは試合を組まれていた。私も観戦に出向いたけれど、そんな状況でも当然財閥からの仕事は送られてくる。私はなんとかリョーマを待つ空き時間で会場内の座れるところを探してはパソコンを開く生活だった。

大会の結果はベスト16だった。出場選手の一覧を改めて見れば10代はリョーマだけでみんな年上のベテランたちばかりだった。ハードコートが得意なリョーマは躍進し、またランキング順位を押し上げることとなった。

ロッテルダムに一週間の滞在後、今度はアメリカには帰らず、その足で次の大会に向かった。
13時間の長距離フライトで辿り着いたのはアルゼンチン、ブエノスアイレス。
時差は4時間なのでそれほど混乱はないものの、今度は南半球の国なので気温が30度近くあった。暑さが移動の疲れに追い打ちをかけてくる。なんだか腰が痛い気もする。

この日の夜はいつ眠りに落ちたのか、ホテルの部屋で気付いたら瞼が落ちた。リョーマの腕の中。




***




ブエノスアイレスに到着したその夜、眠そうにしている名前をベッドの中で抱きしめて、キスをした。角度を変えて唇を何度か重ねた頃、寝息が聞こえてきたので笑ってしまった。名前が寝たなら俺も寝よう。二人で体を寄せて眠りにつく。名前、慣れない環境で頑張ってる。次の朝、俺のスマホのアラームが鳴ったけれど名前は目を開けることもなくまだ眠り続けていた。音を止めようと体を起こして、気付いた。腕に感じる重み。どうやら一晩中、腕枕をしたままだったらしい。

なんとか体をひねってアラームを止める。そして気付く。やば。右手の指先が、動かない。腕全体の感覚が、ない。
名前の頭をどうにか枕に下ろし、動かない腕を引き抜いた。名前は小さく声を漏らしたけれど相変わらず気持ちよさそうに眠っているので苦笑いが溢れた。

「帰ったらお仕置きね。」

そう言って額に唇を落とすと、「なにが…?」と寝ぼけた声が返ってくる。
痺れているだけだからそのうちに戻るし、右腕だからそこまでプレイに影響もないだろう。言うと名前は気にするだろうし、それにまだ寝かせてあげたい。

「なんでもない、寝てていいよ。行ってくるね。」

ベッドを抜け出し支度を始めると、名前は目を閉じたまま力無く手を振って「いってらっしゃい」とふわふわした声で言った。




今日は練習日。ロッカールームにて着替えていると知った顔が入ってきた。

「部長。ブエノスアイレス出てたんすね。」
「その呼び方はもうやめろといつも言っているだろう。」
「部長は部長じゃん。」

手塚部長はため息をついてバッグをロッカーに詰め込んだ。部長は俺と同じくツアープロとして世界を転戦している。だからこうして大会中に顔を合わせることもよくある。

「しばらくハードが続くから一度クレーの感覚を取り戻すためにエントリーした。」
「同じっす。ハードのがスピード出るから好きですけど、一旦出ておこうかなって。」

無意識に、今朝痺れていた腕を回していると手塚部長は鋭く目を向けてきた。

「どうした。調子が悪いのか。」
「いや…そういうわけじゃないっすけど。」
「ならいいが。エネルギーは全部コートに持ってこい。」
「?」
「不二たちから聞いた。名字が同行しているそうだな。」
「そっちの話?散々コーチたちからも言われてるしちゃんと我慢してますよ。」

仏頂面でそんなことを言い出すのだから手塚部長は面白い。青学を束ねていた頃は規律を重視し厳しく振る舞っていたけれど、彼は言葉数が少ないだけで根が暗いわけではない。俺は部長と話すのは嫌いじゃなかった。

「名字は元気か。」
「元気っすよ。時差ボケでまだ寝てたんで今日はホテルに置いてきましたけど。」
「そうか。あいつにとっては慣れないことも多いだろう。気遣ってやれ。」
「そのつもりっす。そんなに気になるならどっかで集まります?」
「いや…いい。お前は名字を囲って俺に威嚇してくるだろう。」
「そりゃあまあ。部長、昔名前のこと好きだったでしょ。」
「部の一員として距離を測っていただけだ。」
「どうだか。」

軽口を投げ合って、リストバンドの位置を直しロッカーの扉を閉めた。

「越前。今日はヒッティングは誰かつけているのか?」
「まあ一応。」

練習相手、ヒッティングパートナーとは常に固定ではなく大会ごとに都度捕まえる。時間の合う出場選手や、地元の有力プレイヤーに頼むときもある。駆け出しのときはコーチが練習相手という時期もあったけれど、ここ最近俺は別でヒッティングパートナーをつけていた。(コーチももう若くないからね。)

「なに。相手してくれるんすか?」
「…現地契約のパートナーよりお前の方がずっと練習になる。」
「同感。」

俺たちはラケットを背負ってコートに向かった。







「ただいま。」

練習を終えてホテルの部屋に戻ると名前が珍しくソファで休んでおり、こちらを振り向いた。

「おかえりなさい。ごめんね、今日出て行ったの全然気付かなかった。」

立ち上がりこちらに寄ってきてくれた名前の頬を包んで軽く潰してみる。

「じゃあ帰ったらお仕置きって話も覚えてない?」
「何…?」

不思議そうに見上げてくる名前を抱き上げてベッドに転がした。驚いた顔をしているその体に覆い被さり、顔を寄せる。

「どうしたの?私何かしちゃった?」
「朝起きたら腕痺れてたんだよね。」
「え…!もしかして、腕枕…?」
「そ。」
「やだ、ごめん…!大丈夫?まだ痛む?」

名前は半泣きになって、どっちが痛いの?なんて腕に恐る恐る触れてくる。ま、もう何ともないんだけどね。別に根に持っているわけじゃない。でも。俺はいつまでも子供だ、好きな子には意地悪をしたくなる。

「だからお仕置き。」

名前の服をずらして右肩を出させて、歯を充てた。そして強く吸う。

「ひゃっ…」
「これでおあいこ。」

俺しか見ないような場所。誰に威嚇するでもないけれどその肌にキスマークがついたことに俺は心が満たされた。これでお仕置きは完了。
けれどその露出した肩を見ているうちに、別の衝動がじわじわと迫り上がってくる。


「…」


エネルギーを全部コートに?
こんなに近くに名前がいるのに?

試合も近い。わかってる。コーチや手塚部長が呆れて言うそれらの言葉が頭に浮かぶ。でも名前の前では俺は自分がプレイヤーであることを忘れてしまう。

「待って、」

雰囲気を察したのか、名前が俺の胸を押し返し抵抗してくる。偉いなあ名前は。俺なんかよりずっと俺のテニスのこと考えてる。
しかし俺は次にかけられた言葉に、体がびたりと制止した。

「ごめん…今生理なの…」

名前は申し訳なさそうにこちらを見ていた。
昂っていた気持ちがするすると平らになっていく。そうか、自分の中で色々なことが腑に落ちた。今朝名前が起きてこなかったのも、帰った時珍しくパソコンを閉じていたのも、体調が悪かったからなんだ。

「…そう。大丈夫、名前は謝らないで。俺こそ、ごめん。」

なるべく冷静に、声を絞り出した。名前は何も悪くない。だからそんなに不安そうな顔をしないでほしい。

「ちょっと出てくる。ゆっくり休んでて。」

頭をひと撫でし、布団を名前の肩までかけて俺はホテルの部屋を出た。



***



「リョーマ、待って、ごめん…」

熱を帯びたリョーマの瞳に、胸が痛んだ。リョーマは静かに首元に唇を寄せる。気持ちが揺れそうになるけど今日はだめ。

「ねえ、待って。ごめん…今生理なの…」

私の言葉にリョーマの動きが止まる。胸にじわりと罪悪感が広がった。

「そう。大丈夫、名前は謝らないで。俺こそ、ごめん。」

リョーマの声は低かった。私の頭をくしゃりと撫でて、布団をそっとかけてくれる。ベッドがきしむ音がして、リョーマの体温が離れていく。

「ちょっと出てくる。ゆっくり休んでて。」

安心したのも束の間、なんとリョーマは部屋を出て行こうとしたではないか。
振り返ったリョーマの顔に薄く笑みが浮かぶも、無情にもドアが閉まる音が響いた。
したかったんだよね。ごめんね。私のせいで気を遣わせちゃった。どこに行くんだろう。まさか他の誰かのところへ…?いやそんなわけがない、毎日ずっと一緒にいて、遠征中疲れていても真っ直ぐに私のところに帰ってきてくれている。
頭で分かってても、体の重さに気持ちが悪い方向へと膨らむ。一人の部屋で、不安だけが大きくなる。


リョーマは15分もしないうちに帰ってきた。ほっと胸を撫で下ろす。ベッドから身体を起こすと、リョーマはレジ袋を引っ提げていた。

「…どこに行ってたの?」

恐る恐る尋ねると、枕元に座って袋の中身を見せてくれた。

「どこって…、売店。」

ああ、そういうことだったんだ。
中には紅茶のパックと色んなお菓子が入っていた。

「名前、こういうとき甘いもの食べるでしょ。紅茶もカフェインレス見つけたから、試しに。美味しいか分かんないけど。」

私が生理中に間食が増えることや、コーヒーを控えること、特別話した覚えはないのに。

「…気付いてたんだ。」
「毎日一緒にいればそりゃあ分かるよ。クーラーキツかったらこれも使って。」

リョーマは袋の底から携帯カイロを引っ張り出して、差し出してくれた。

「このトーナメント終わればまたLAに帰れるから。もう少し頑張れる?」
「うん。」

リョーマはふわりと私の肩を抱き、こめかみに軽いキスを落とす。すぐに離れて、シャワーを浴びにバスルームへ向かっていった。
その背中を見送る。一瞬でも疑ってしまって申し訳ない。優しさがじんわりと胸に広がる。11月のシーズンオフから私たちは毎日一緒にいた。リョーマ、忙しい中でも私のことちゃんと見ててくれてたんだ。




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