サンダルウッドの情念
16.距離感



「起きた?」
「ん、あれ、ここ…」
「河村先輩のお家のお店だよ。」

いつの間にか眠っていたらしい。辺りを見渡せば寿司屋の座敷。

「…ああ、そうか。」
「よく眠ってたね。」

すぐそばに名前も座っていて壁に もたれかかっていた。
遠くから騒がしい人たちの笑い声は聞こえるがその姿は見えない。

「先輩たちは?」
「河村先輩の部屋でゲームしてる。」
「名前行かなくてよかったの?俺寝てる間暇だったでしょ。」
「いいの。ゆっくりしたかったし。」
「ふーん。」

名前は背筋をうんと伸ばすと膝立ちでこちらに向かってきた。

「痛む?」

正面でぺたりと座り込んだ名前に左目の眼帯をまじまじと見られる。顔が近くて息を飲んだ。

「…痛み止め効いてるし、平気。」
「痕、残っちゃうかな。」
「別にいい。」
「私が嫌だよ。」
「…。」

名前はいつも人の怪我をひどく心配する。先程は試合中たったから止めないでくれたけれど、名前は大会やランキング戦などの節目に神頼みするほどに誰かが負傷することを恐れている。
河村先輩が腕を痛めたときだって、あの場では気丈に振る舞っていたがどれだけ名前は悲しんだのだろう。

「…強い人ほど隠すのが上手くてほんと困っちゃう。それで無理して故障しちゃうんだから目も当てられないじゃん。」
「…?」

…それは誰のことを言っているのだろう。
少しの沈黙の後、遠くからまた先輩たちの一際大きな笑い声が聞こえて、名前は釣られて表情を緩めた。

「そういえばさあ」
「ん」
「さっきみんなにも突っ込まれちゃったけど、名前で呼んだのやっぱりまずかったかな。」
「別にいいんじゃない。俺もつい、いつもの呼び方しちゃったし。」
「無意識だったよねえ、お互いに。」

へらりと笑って名前は膝を抱えた。制服のスカートでそれは不味いんじゃないの、と思ったけどあえて言わなかった。二人だしいいや、なんて。

「今までも隠す必要はなかったんだけど騒がれるのが嫌だったの。」
「それは俺も同感。」
「リョーマは女の子のファンも多いしね。」
「なにそれ。でもそういう名前だって他校の奴らから噂されてんじゃん。」
「そうなの?」
「…さあね。」



『単刀直入に聞くけど、付き合ってんの?!』


先程菊丸先輩が言ったことを思い出す。
名前で呼び合って、それを何故か隠したくて。でも他の奴らに名前のこと見られているのは気に入らなくて。
悲しませたくなくて。無理して笑って欲しくなくて。…この気持ちは嘘ではない。けれど。

「とりあえずもう先輩たちにはバレちゃったし。これからは部活中も普通に話そう。」
「うん。でも…お世話になっている立場でこんなこと言うのはダメかもしれないんだけど、一緒に住んでるのはまだ秘密にしたい。」

名前はぽつりぼつりと言葉を選ぶように、そう言った。言いたいことは分かる。気を遣わせてごめん。

「名前。俺は嫌じゃないから。」
「うん。」

膝に両手を乗せてどんどん小さくなる名前に下を向いて欲しくなくて、頬を撫でようと伸ばした手は空を切った。片目のせいか、気を抜くと遠近感が掴めない。


「ここ。」
「!」


肩が跳ねた。行き場を失った手を、名前は両手で捕まえて自らの頬に当てたのだった。


「私も嫌じゃない。」

「…うん。」
「リョーマの手、冷たくて気持ちいいね。」

名前のゆったりとした瞬きに目を奪われる。サラサラとした頬越しに自分の心臓の鼓動が伝わってしまいそう。思わず息を潜めると名前は目を閉じた。
そして囁くように


「付き合う?」


その柔らかな声が静かに響いた。


「…俺と、名前が?」
「うん。」
「…」


この気持ちは嘘ではない。
嘘ではないけれど。
今までのことを思い出す。名前と出会ってからしばらく経った。名前はいつだって優しくて、
頑固で、強がりで。
たくさん与えてもらっている。
でも俺は彼女に一体何ができるだろう。


「名前。」
「うん。」
「…俺、名前といるとラクだし、テニスも、俺のこと一番に考えてくれて支えてくれてるのすごく助かってるよ。」
「……うん。」

「でもちゃんとしたいから。もう少し待ってほしい。」


頬から手を離すと名前の長い睫毛が少し揺れた。思わずその華奢な肩を抱いて引き寄せる。体勢を崩して胸に飛び込んできた名前は、一瞬体を強張らせたが次第に身を委ねた。
応えるように、控えめに背中に回された腕が愛しくて。
ふかく深呼吸をする。


「名前のこともっとよく知って、ちゃんと好きになって、ちゃんと付き合いたい。」


腕の中で静かな名前はどんな顔をしているか分からないけれど。


「だから待ってて。」


細腕が、一層強く抱き返してくれたので。


「そう言ってくれると思ってた。」


小さく、小さくそう呟いた名前の優しい声色に、なんだか込み上げるものがあって。思わず情けない笑みが溢れた。







しばらく抱き合ったまま、静かな店内に二人の呼吸の音だけを聞く。
艶やかな後ろ髪を撫ていると、階段を降りる足音が聞こえてきたので残念だが名前の背中を軽く叩いて顔を上げさせた。

「あんれ、おチビ起きてんじゃん!」
「寄せ書きしてやろーと思ったのによお。」

マジックペンを片手に、騒がしい先輩たちはぞろぞろとこちらにやってきた。

「寄せ書きってなんすか。」
「その眼帯に記念になんか書いてやろうと思って。」
「桃先輩のチャリにも同じことしますよ?」
「おいおい俺の愛車にそりゃねーよ!」
「じゃあ俺にも無しってことで!」

もうすっかり夜も遅くて先輩たちは帰る支度をし始めた。俺たちももう帰らなくちゃ。

「なんかおチビ機嫌いいね?」
「そっスか?あ、桃先輩。今日こそ三人乗りで帰りましょ。」
「お前なあ!」

「名前も良いことあった?」
「え、どうしてですか、不二先輩。」
「襟、シワになってる。」
「え、あ、」
「名前、早く。帰るよ。」
「わ、さようなら不二先輩!」
「はいさようなら。」

また標的にされている名前の手を引いて先に店から出させる。不二先輩は楽しそうにしていて、この人やっぱり読めない。


「不二先輩。あんまり名前のこといじめないでくれません?」
「ふふ。面白いね。」
「…全然面白くないんだけど。」




店を出ると桃先輩はなんと菊丸先輩を後ろに乗せて出発してしまい、道路にぽつねんと名前と俺だけが残された。

「また二人きりだね。」

名前がそう笑うから。まあ、いいか。と思える。

「手でも繋ぐ?」

思い付きでそう言って名前の顔を見るが、先程までのしおらしさはどこへやら。悪戯な顔をされたので面をくらう。

「まだダメ。」
「…っス。」


やっぱり名前には敵わないなあ。



≪前 | 次≫
←main