サンダルウッドの情念
18.コピーに塗る薬


地区大会が終わって数日経つと左目の傷は塞がり、腫れもひいてきた。

「リョーマ、入るよ。」
「いいところに来た。これ貼ってくれる?」

畳まれた洗濯物を届けに名前が部屋に訪れた。ちょうど風呂上がりで瞼に塗り薬を付けていたところだった。傷テープを適量切り分けて名前に差し出す。

「うん。そこ座って。」

ベッドに腰掛け名前を見上げると次には下を向くよう言われる。瞼にテープを貼られ終わりの合図に前髪を撫でられた。

「お薬もちゃんと毎日してる?」
「飲み薬はこないだ終わった。」
「テニスが関わるとほんと真面目だよね。」
「まあ早く治したいからね。」

片目では危ないからという理由で最近は部活で基礎練習しかできていない。
個人的にはもう平気だと思うのだけれど副部長をはじめ周りが酷く心配をしてくれるからどうにも身動きが取りづらいのだ。
フラストレーションが溜まる。

「名前。」
「ん?」
「ここきて。」

自身の隣を叩いて知らせてみる。すると名前は疑問を持たず素直に座ってくれるからそれはそれで頭を抱えたくなった。
ここ俺の部屋。俺のベッド。わかってる?少しは警戒してほしいんだけど。

「リョーマ元気ないね。」
「そう見える?」
「うん。」

あの日一度名前を抱きしめてから自分の中のタガが外れてしまったんだと思う。
名前の腰を抱く。すると自然に名前もこちらの首に腕を回した。

少しの沈黙を味わう。
手を繋ぐのはダメとか言ったくせに、何故かハグは逃げないのだから名前も大概俺に甘い。

「早く試合したいね。」
「ん。」

お風呂上がりのいい匂いがする。同じお風呂に入っているはずなのにどうしてこんなに名前は甘い香りがするんだろう。体温とその境目が分からなくなるまでじっとする。

「…リョーマ、寝ちゃった?」
「起きてる。」

本当はこのまま体重を預けて倒れ込んでしまいたい。でも怖がらせたくなくて、嫌われたくなくて。曖昧さの境界線を探る。今はまだここまでかな。

「…名前は知ってるかもしれないけど」
「?」
「今週末、部長と試合してくる。」
「…そう。」

腕の中で名前が身動ぎして左目の傷テープを指でなぞった。

「呼び出されちゃったの?」
「ん。怖いよねあの人、顔が。」
「ふふ。そんなこと言って楽しそうじゃん。」
「まあね。」


今日学校であの仏頂面に怪我の具合を聞かれ、まあまあっスね、と答えた。すると鉄道の高架下のコートに来い。ひどく神妙な顔でそう言われたのだった。







そして来る日。
電車のレールの音が響くコートで手塚部長と相対した。左瞼の違和感はなくなり視界も良好。コンディションもよかった、はずなのに。


頭で分かっているのに何故か全てのボールは部長の手元に打たされて、すぐそこに落ちるのが見えるのにドロップショットに手が届かない。

強い。

毎日父親にはテニスで負けてる。でもそれは父親だから。生まれたときから一度も勝てなくて、今でもテニスでからかってくる父親をどこか特別だと思ってた。
でも強いのは、親父だけじゃない。
そんな当たり前のことを手塚部長に負けて、やっと我に帰った。



帰路。その足で家の裏の寺に直行した。鐘をついていた父親に勝負を挑む。

「珍しいじゃねぇか、お前から誘ってくるなんてよ。」
「いいからやるよ。」
「…ハンデはどうする?」
「いらない。」

父親のパスを打ち返す。先程の試合の走馬灯が脳裏に焼き付いている。
俺は、知らずのうちに父親に負け慣れていたんだ。
悔しい。悔しい。力任せに放ったショットが父親の脇を抜いた。

「親父…」

負けたくない。誰にも。

「強くなりたい。もっと…もっと!」




夕食に名前が呼びに来るまで延々ボールを打ち合った。気付けばすっかり日は暮れていた。

「帰ろ。」

名前が笑って、コートの外の音がやっと聞こえた。上機嫌な父親は軽快に石階段を降りていく。
カラスの鳴き声が響く寺を出て、手繋ぐ?と尋ねれば案の定名前はダメと言って笑うので、ああ、好きだなあと思った。

「名前。」
「?」

「柱ってどういうことだと思う?」
「柱…?」
「いや、なんでもない。…やっぱあの人すげー怖いよ、顔が。」




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