サンダルウッドの情念
28.悪童襲来


放課後の部活の時間。部室でジャージに着替え外に出ると、荒井先輩とカチローの悲鳴が耳に飛び込んできた、と同時に見えたのはラケットを乱暴に振りかざす男の姿。


咄嗟にラケットを引っ掴んで走り、カチローに向けて放たれたボールをなんとか打ち返した。荒井先輩は腹を抑えてうずくまっている。銀髪の男は煙草をふかしながらギラリと笑った。煙草?

「なんなのこの騒ぎ。」
「き、気をつけて!コイツなんかヤバいよ!!」
「昨日はオレの楽しみ邪魔してくれたなあ。俺が先に銀河中と遊ぶ予定だったんだぜ。」
「…アンタのこと知らないんだけど。」

昨日。煙草。嫌な予感がする。銀髪はあろうことか足元の石を拾い上げてこちらに向けてサーブを放った、頭で考えるより先に体が動いてラケットの面でそれをいなした。名前。咄嗟に視線を投げる。名前、来るな。男の咆哮、こちらに飛んできた無数の石、その隙間から、荷物を放り出して駆けてくる姿が見えた。

「話が違うじゃないですか!!」

今まで聞いたことのない大きな声で名前は叫んだ。こちらに来ないで欲しいのに、この男に近付かないでほしいのに、石をぶつけられたあらゆる箇所から血が吹き出して思わず痛みに膝をついた。

「手は出さないって言いましたよね!公式戦まで待つって!」
「勘違いすんなよ。今日はほんの挨拶がわりだ。」

くそ。やめてくれ。

「にゃろう…」
「リョーマだめ!!」

男の手が名前の方へ伸びる。思わず落ちてたテニスボールを拾い上げた。振りかぶってサーブを放つ、そいつの顔面目掛けて。こんなことをして名前は怒るかもしれない。でも。どうしても触らないでほしかった。

「あせんなよ。」

ありったけの力でドライブを掛けたのに銀髪はそれを片手で受け止めた。ボールに爪を立ててこちらを振り返るとそいつは言った。

「都大会決勝まで上がってこい。俺は山吹中3年亜久津だ。」

嵐が去ったように静まり返った。去っていく背中を見ていることしかできない。痛い。顔中が、腕が、痛い。けれどそれどころじゃない。

「名前昨日あいつと会ってたの?何があったの。」

思わず詰め寄って聞けば、名前は下を向いてしまった。違う、そんな顔をさせたいんじゃない。

「…ごめんなさい。」

小さくなってしまった名前の頬を包んであげさせて、目を見た。

「怒ってるわけじゃないから。ねえ、何があったのか教えて。」
「…その前にリョーマは保健室。」
「……こんなときも頑固なの困るんだけど。」

とても悲しそうな顔をして名前は一際痛む額からを伝う血を指の腹で拭った。慌てて手を取ると案の定その華奢な手は俺の血で赤く染まった。

わかったよ。ため息をついて白旗を上げた。そのかわりちゃんと聞かせてもらうからね。







「いてて、」
「もうちょっとだから我慢ね。」
「…カルピンに言うみたいに言うじゃん。」

くすりと名前が笑ったので、まあいっかと思う。荒井先輩とカチローは打撲程度だったらしく湿布を受け取ると居心地悪そうにさっさと出ていってしまった。保健の先生は不在でここには二人きりになった。

「教えてくれる?何があったのか。」

椅子に座ると名前はゆっくりと口を開いた。

「結果的にリョーマのこと売っちゃったのかもしれない。」
「なにそれ。」
「あの人はね山吹中の人。昨日リョーマが桜乃ちゃんのボール探しに行ったあと偶然会ったの。――――」




***



『あ、また丸めて入れてる。』

リョーマが他校に桜乃のボールを取り返しに行ってる間名前は手持ち無沙汰で、置いてかれたリョーマのラケットバッグの開いた口からレギュラージャージが押し込められているのを見つけてそれを取り出した。

『困っちゃうなあルーキーくん。』

一度広げてシワを伸ばし畳んでいるとリョーマが走って行った方向から知らない男が一人こちらに向かってきた。

『おい。』
『!』

低い声。
唐突に低い声が降ってきて顔を上げれば、その強面が名前を見下ろしていた。

『はい…?』

咄嗟に返事をした、してしまったあとに名前は酷く後悔した。

『そのジャージ、青学んだろ?』
『…。』
『銀河中で遊んでやがるのはお前の連れか?』

銀河中。名前は頭を回転させた。銀河はこの近くの学校だ。もしかしたらさっき女の子たちがボールを入れてしまったという他所のコートとはそのことなのかもしれない。
リョーマが気に障ることをしてしまったのだろうか。分からない。白い学ラン、この人はおそらく山吹中の人。ラケットを背負っているからこの人も恐らくテニス部で、しかし去年の大会では見かけた覚えが名前にはなかった。リョーマが仮に銀河中で騒ぎを起こしていたとして、山吹中のこの人がどうしてこんなに怖い顔をしているのか。考える。顔に出したらダメだ。表情を剥がしてただ見返すことしかできないでいると男は名前を見下ろすように一歩踏み出した。煙草の灰が落ちてきそうな距離で思わず名前は身を硬らせた。

『あの身長、まだ1年だろ。面白え1年つったら聞いたことがあるぜ。確か……越後屋だったか。』
『…、それを知ってどうするつもりですか。』
『今日俺はな銀河と遊んでやろうと思ってたんだ。その楽しみをあの小僧に奪われたんだよ。今度は礼に俺があいつと遊んでやらねえとなあ?』
『どうしてそんなこと、』
『お前さっきから生意気だな。』

強烈な煙草の香りに名前は顔を歪ませた、対照的に亜久津は強面の口角をニイと上げる。

『邪魔する気か?』
『…うちの選手とやり合う気ならどうかテニスで、お願いします。』
『ハッ。面白え。だったらなあ、その代わり試合で俺が勝ったら――――』

『え、』
『取引だ。万が一にも俺が負けたら手は出さねえ。越後屋にも、お前にも。楽しみにしてるぜマネージャーさんよお。』
『?!知ってたんですか。』
『やっぱりそうかよ。』
『!』

ポケットからライターを取り出すと男は新しい煙草に火をつけた。もくもくと煙を纏って、男は顔を寄せた。

『青学には面白え1年レギュラーと、ここらじゃ珍しく女子マネがいるってことは、割と有名な話なんだぜ。』
『…』
『逃げんなよ。』




***




「……名前悪くないじゃん。」
「…でも私がもう少し上手く言えてれば今日だって」
「違うよ。名前のせいじゃない。」

そんなことで悩ませてしまった。罪悪感に胸の奥がチクリと痛む。

「あいつとは話しただけ?何もされてない?」
「うん。」
「本当に?」
「うん。本当。」
「よかった…。」

昨日名前から煙草の香りがした。先程亜久津ってやつからも同じ匂いがしたから嫌な予感がしていたけれど、名前の言うことが正しいのなら最悪の事態は免れたようだ。

「名前。お願い。こういうことがあったら今度からちゃんと俺にも言って。」
「…うん。」
「それから今日みたいに危ないことは二度としないで。あの場面で名前が怪我でもさせられてたら俺もきっとアイツと同じようなことしてたよ。」
「…ごめん。」

アイツにやられた色んなところが痛いけど。名前に怪我がなくて本当によかった。椅子に腰掛ける名前を抱きしめた。後頭部を数回撫でると、こちらの腹に顔をうずめてもう一度名前は小さくごめんねと言った。

「そんなに謝らなくていいから。」
「違うの、あの、無いと思うんだけれど、私はリョーマが勝つって信じてるけど、」
「?…ああ、あいつが言ってた取引ってやつ?」
「うん、あの。あのね。」

しどろもどろな様子が気になって、顔の見えるように少し離れると、困ったように眉を下げて名前はこちらを見上げた。あ、上目遣い。

「もしリョーマが負けたら、お前が俺と遊べって言われてて。」
「…は?」
「どういう意味かは分からないんだけど…」
「………。話してくれてありがと。」

そんなの決まってるじゃん。
アイツは名前と喧嘩をしたいわけでも、ましてや文字通り仲良く遊びたいわけでもない。
…そうじゃなくても負けないけど。負けるわけがないけれど。絶対負けられないじゃん。

こうなったのも、納得はできないけれど元はと言えば俺のせい。俺の何かがアイツの気に障って、名前は俺を庇ったんだ。

「謝らなきゃいけないのは俺の方だよ。」

もう一度腕の中に収める。名前もこちらに腕を回した。

「ごめん。」
「リョーマに謝られるの変な感じする。」
「なにそれ。」

小さく笑い合う。保健室の内線の電話が鳴って無人の部屋によく響いた。それが鳴り止むまでの少しの間、名前と抱きしめ合っていた。



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