サンダルウッドの情念
30.雨だれにでも優しく明日から都大会の後半戦が始まる。
残すは準々決勝と、それから決勝戦だ。決勝までお互いが進めば亜久津の所属する山吹中と対峙する。
乾汁を賭けた地獄の外周を終え地面に転がった。いつものようにタオルを差し出してくれた名前が意味深な笑顔を向けてくるので首を捻った。
「なに。」
「休まらないね。がんばって。」
「?」
「呼ばれた者からコートに入れ。不二、それと越前!まずはお前たちからだ。」
「…そういうこと。」
手塚部長からの指名が飛ぶ。体力と集中力向上の為、疲労が最も蓄積するタイミングで試合をするとのことだ。
今度は兄貴の方ね。お手柔らかにと不二先輩が微笑んだ。ねえ不二先輩。倒しちゃっていーんすよね?
「青学No.2」「天才」そう人は呼ぶ。これまで不二先輩の試合をいくつか見てきたが、底の見えない感じはこの人の人柄がよく現れていると思う。
強い、いや強いというより、うまい。渾身のスマッシュもカウンターであっさりと返された。優しげな雰囲気が印象的だが本来この人はかなり強気なんだと思う。挑戦状とばかりに何度も何度も弧を描く打ち下ろしやすいロブに心臓がドクンと跳ねた。不二先輩のスイートスポットを瞬間的に外すにはこれしかない。
「もうロブ上げてくれなくていいっスよ!」
球速と軌道。コンマ数ミリの単位。
ボールはネットの白帯を僅かにかすめて、不二先輩の羆落としはコートの外側に落ちた。
「10分経過です!」
名前の声が聞こえる。どうやら次の試合の始まる合図のようだ。
手塚部長と桃先輩が別のコートへと入っていく。横目で見れば名前と目が合って帽子を被り直せばほんの少しだけ名前が目を細めたのが分かった。僅か数秒の出来事に心が満たされていく。
「妬けちゃうね。」
「…るさい」
コートの向こうで不二先輩がこちらを見て笑った。不二先輩と名前は仲がいい。揶揄ってるだけだと桃先輩が前に言ってた。どこまで本気か分からないからなんとなく言葉を濁したくなる。
「…次行きますよ。」
サーブを放つ、ボールをトスして見上げた空は雲が忙しなく動いていた。
ラリーを重ねている内にバケツをひっくり返したような雨が降ってきた。俺はやめる気は無いし不二先輩も手を止めない。だってこんなに面白い試合、やめるなんてもったいない。ゲームカウント3-4をひっくり返してやりたくて次に次にとボールを打ち込んだ。
「コラ〜〜〜ッ いつまでやっとんじゃバカモンが!!」
耳をつんざく咆哮に顔を上げた、顧問のおばさんが鬼の形相でコートに入ってきたからだ。思わずサーブを打ち損じた。
「そんなにやりたきゃいつだって出来るじゃろ。本番は明日の都大会後半戦じゃ。」
思わずため息をつく。不二先輩は物分かりよく矛を納めた。ズルいっすよ自分が勝ってるからって。
諦めてグリップを握り込む手を緩めれば、他の部員たちが雨の中急いでコートの片付けをしていることにようやく気付いた。誰もかれもがずぶ濡れで、ふと頭をよぎる。やばい、名前。
いつだったかカルピンを風呂に入れて水を被った名前の姿を思い出す。まずい。あれを見られるわけには―――
慌てて見渡せば部員に指示を出す手塚部長に頭を下げて足早に去っていく名前の後ろ姿が見えた、その肩には明らかにサイズの大きいレギュラージャージ…
「手塚から借りたのかな。」
「!」
後ろから声がして振り向くと不二先輩が額に張り付く前髪をかき上げて笑った。
「君も面白いよね。すぐ顔に出るから。」
「…馬鹿にしてるんスか。」
「はは、そういうわけじゃないよ。」
楽しそうに笑うこの人の言うことは掴みどころがなくて肩をすかされたような気になる。少しもおもしろくなくて眉間に皺が集まってくる。
「ねえ、越前は名前のどういうところが好きなの。」
だから突然こういうこと言ってくるのも、おもしろくなくて。
「…なんスか急に。」
「俺はね、名前が誰にでも優しいところがすごく好きなんだ。」
「…。」
「そんな顔しないでよ。」
くつくつと笑う。好きって何。言葉の真意が分からない。ねえ不二先輩。その好きってどう言う意味なの。
「あのさあ…」
「…僕、思うんだ。誰にでも優しいっていうのは誰のことも特別じゃないってことなんだよね。」
「?」
「それは僕のこともそうだし…越前には、まあ、どういう顔をするのかは知らないけれど。」
雨が目に入る。張り付くユニフォームが鬱陶しくて先程名前から受け取ったタオルももちろんずぶ濡れ。
「誰にでもいつでも笑うでしょ。名前は。」
「…」
ああ、指先が冷たい。
そうかもしれない。でもそうじゃないと思っているし、願いたい。これまでのこと。繋いだ手の薄さも、抱きしめた温もりも。偶然近くにいたのが俺だっただけなのかもしれない、家のこと然り。でも、でも。
「…そ、スね。」
「だから僕は名前のことが好きなんだ。」
「…その好きは、」
雷が鳴っている。不二先輩の言うことに一々衝撃を受ける。伏せた目が一瞬泣いているようにも見えて、不二先輩は本当に分からない。
「それは恋愛の意味の好きですか。」
「どうだろうね、でも」
ドクドクと心臓がうるさいのはきっと先程まで試合をしていたからだ。
手塚部長のジャージを纏った姿を思い出す。それ以外にも、幾度となく、他の男に笑いかける名前を見てきた。
「越前。あの子を好きになるっていうのはそういうことだよ。」
不二先輩は踵を返した。そろそろ戻らないと冷えるよ、なんて言って笑って。
「…分かってます。」
ザンザンと降る。雨が。ラケットを一振りしてガットの水を払った。
分かってる。分かってるよ。
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