サンダルウッドの情念
31.夜風部室に戻って着替えると絞れるくらいに衣服が水を含んでいた。汗なのか雨なのか分からない。全部脱ぎ捨てて乾いた制服を纏った。部室を出るとあんなに降っていた雨は小雨に変わっていた。
「…なんだまだ続きできたじゃん。」
「だな。ま、仕方ねえよ。帰ろうぜ越前。」
桃先輩に声をかけられて駐輪場に向かう。その途中で別棟で着替える名前と合流した。
「よお名前、お前も派手にやられたな!」
「ねー。でもすぐやんでよかった。」
「…」
風呂上がりの姿は何度も見ているけれど、唐突に来られると心臓に悪い。タオルを被った名前の髪はじっとり濡れていたのだった。
「…ドライヤーとか無いの。」
「うん。学校にシャワールームとかあれば良いのにね。さすがに寒いや。」
艶っぽくて困る。見ないでほしい。リョーマは寒くない?なんてこちらを覗くその目にいつも左右されている。
桃先輩と名前に続いて帰路を進む。不二先輩は名前のことを好きだと言った。桃先輩はどうなんだろう。他の先輩たちはどう思っているんだろう。
「手塚部長やっぱりすごかったね。」
「ほんとすげーよ、異次元って感じ。ありゃバケモンだな。」
「桃、捻挫したとこもう平気?」
「部長もそんなこと言ってたけどマジで平気なんだって!ほら絶好調!」
伸びる影を追いかけて、後ろから二人の会話を眺めていると名前が仕切りに腕をさすっているのが目についた。
「桃先輩。」
「あん?」
「…」
ああ、嫌だなあ。
「名前後ろに乗せて俺んちまで送ってってくれますか。」
「いいけどどうした急に?」
軽い調子でこちらを振り返った桃先輩と同様に首を傾げて名前がこちらを見ている。半乾きの頭にかけたタオルが落ちそうになっていたので手を伸ばし掛け直してやるとパチリと目があった。
「風邪ひかれたら困る。」
明日大会だし、と付け加えて小さな背中を押した。桃先輩に名前が一緒に住んでいること知られて今となってはかえって良かったと思う。
「リョーマは?」
「歩いてくよ。またあとでね。」
「いいのか越前?」
寒そうにしていたから早く帰ってほしいと思うのは本当。自分で言い出して首を絞めるんだから俺もどうかしてる。桃先輩は名前の荷物を受け取って自分の肩にかけた。そして名前の腕を掴んで自転車の荷台に引き上げる。ああ、やっぱりダメだなあ。
「いいから。行って桃先輩。」
「わ、桃、待って。」
「?」
「リョーマ、あのね、あとでお寺行くの。一緒に来てくれる?」
「…うん。」
キイ、と音を立ててゆっくり自転車が進んでいく。桃先輩は俺に少し手を上げてそれから前を見た。「なんで寺?」と名前に話しかけている。大会前だから、と名前が答えるより先に正解が頭に浮かんだ。
なんか、それだけでいいのかもしれないとも思った。
家に着くと出迎えた母親にせかせかと声をかけられた。名前は風呂に入っているようだ。時折シャワーの音が聞こえる。
「ほら、早く洗濯物出しなさい。」
「あとで…」
「明日困るでしょ?靴も濡れてるんじゃないの?」
「まあ… ていうかなんで知ってるの。」
「名前ちゃんが言ってたわよ。土砂降りの中で試合したんですってね。」
しぶしぶ濡れた練習着をバッグから取り出す。
まったくもう、と母親がむくれた。真面目な母親には だっても何も通用しないのは経験上わかっている。罰が悪くて足元でうろつくカルピンを抱き上げてお茶を濁した。
「夢中になるとなりふり構わないのはお父さんそっくりね。」
ふうん。そういえば顧問のおばさんも前にそんなこと言ってたけど。
「そんなに似てんの?」
「似てるわよ。女の子に優しいところも似てる。」
「…親父の女好きと一緒にして欲しくないんだけど。」
「そうね、でも」
うちの両親はなんだかんだで仲が良いんだと思う。母が父に小言を言っているのはよく見るが本格的な喧嘩は見たことがない。父は基本的に母のご機嫌を取ろうとしているし、そんな母は色々と察していながらも(例えばエロ本持ってるとかそういうことも)基本は笑顔で接している。仲が良いというか、まあ、バランスがいいというか。
言葉を選ぶような少しの沈黙があって、それから母親は遠くを見るような目をして薄く微笑んだ。
「あの人、ああ見えて好きな人には誠実だから。」
…なにそれ。
呆気に取られていると母親は洗濯物を抱え直して背を向けた。カルピンは腕の中で喉を鳴らしている。ねえカルピン今の聞いた?
「…ただのノロケじゃん。」
夕食のあと名前と玄関をくぐった。裏の寺へと向かうためだ。
明日は都大会、準々決勝と決勝。関東大会への出場権は既に獲得したもののもちろん妥協するつもりはない。勝つだけだ。そう、いつもならただ全力で勝つだけ。しかし今回の試合は少し違う意味がある。決勝まで進めばいよいよ亜久津の学校と試合なのだ。
賽銭箱に向き合う名前の横顔を盗み見る。
一層強い夜風が通り抜けて名前が顔を上げた。
「そろそろ夏が来るね。」
こんなときにも彼女はきっと「亜久津さんに勝てますように」ではなく「怪我なく青学が闘えますように」と祈っているのだろう。
気にしているのかいないのか呑気に笑う名前に、釣られて笑う。
「そうかもね。」
「夜でももうあんまり寒くないし。」
「…だね。」
負けないよ。あいつには絶対。「俺が勝ったらお前が俺と遊べ」と言ったのだそうだ、亜久津は。そんなこと絶対にさせない。
一礼をして寺の門を抜け、薄暗い石階段を見下ろした。怪我をされても困るので、というのは建前で、ただ手を繋ぎたかっただけだ。差し出した手を名前は一瞬躊躇ってゆっくりと取ろうとし、おもむろに空を見上げた。
「……き」
「え?」
今なんて。
驚いて名前の次の言葉を待つ。今もしかして。
「ほら月。綺麗だね。」
「…ああ、月。」
まさか、すき、だなんて。
名前にならって見上げれば薄曇りの夜空に満月が煌々と浮かんでいた。期待に高鳴った鼓動のやり場を無くす。ああそう。月ね。
「速いね月。」
「…速いのは雲でしょ。」
「ああそうか。」
「うん。」
月の前を薄い雲が通り抜けて、それを名前は言ったのだと理解して。時々ある名前の気の抜ける発言には毎度毒気を抜かれる。それにしても期待した。いや確かに脈略も何も無かったしただの聞き間違いだけれど。
「…すき」
「え、」
「あ、」
しまった。
口の中で試しに発音してみたら意外としっかり言葉に出てしまっていたらしい。もちろん名前の耳にも届いていたようで、しかし焦ったのも束の間。
「…いま、なんて言ったの。」
今にも溢れ落ちそうな目でこちらを見るから、ああ。
つい目を逸らして手を取った。
「帰ろ。足元気をつけて。」
「え、…うん。」
期待するじゃん。そんな反応されたら。
風に揺らされた木々の音とふたつの足音だけが響く。振り返れば名前は気まずそうに目を伏せた。この沈黙が心地よかった。もう言ってもいいのかな。名前のもっとよく知ってもっと好きになってそしたら付き合いたい。そう言った。確かに言った。名前のことは正直まだ分からないことだらけだ。でも分からなくてもどうしようもなくただただ好きだと心が言っている。
帰宅をしてただいまだけをリビングの家族に向かって言って、そのまま2階に上がった。お互いの自室の前で手をほどくまで結局ずっと無言のままだった。
「リョーマ、」
「ん。」
「明日ちゃんと起きてね。」
「…起きなかったら起こして。」
それぞれのドアノブに手をかけたところでやっと名前が口を開いた。かと思えば話題は業務会話だから思わず笑う。
「ねえ名前。」
「…リョーマ笑いすぎ。」
「名前、聞いてよ。」
泳ぐ目線を呼んで、数秒その瞳を見つめた。
またしどろもどろになっていく名前にまた笑って。
タイミングとかよく分からないけど、言いたくなったから言うね。
「俺、名前のこと好きだよ。」
「…!」
「じゃ、おやすみ。」
真っ赤に沸騰した名前を見届け満足して自室に入った。名前のことはまだ分からないことだらけだし予測も全くつかない。だからいつも最後に負けるのは結局俺だ。扉を閉める直前に微かに聞こえた「私も」に今度はこちらが赤面することになるのだった。
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