サンダルウッドの情念
32.手を握るということ


「ってことは君、青学の生徒です?!もちろん彼の応援をしに行くんだよね、越前屋っていう1年レギュラー!」
「…。」

よく分からない状況になっている。
都大会決勝の日。試合前に木陰で昼寝していた俺の足に躓いて転んだ男子が、こちらをみるなり顔を輝かせてノートを取り出した。注目しているらしい越前リョーマがまさか目の前の本人とも知らず。

「うっそだーん!身長151センチなんてボクと変わらないや!」
「…。」
「じゃあ越前くんの得意技はなんですか?!」

悪意は感じないけれどなんかなあ…

「すごいなあ、僕とは違うなあ越前リョーマ くん。きっと女の子にもモテモテだったりするんだろうなあ。」
「…どうかな。」
「彼女なんかもいたりして。」

彼女。
名前の顔が浮かぶ。昨日部屋に戻る前に名前に好きだと伝えた。ついに伝えた。そしたらそれはそれは小さな返事をくれた彼女の声が耳に残っている。今思い出しても口元が緩みそうになる。

「好きな人、はいるんだけど」
「?」
「付き合えるのかはその子に聞かないと。」
「??」

「リョーマ!」
「だから他の奴には絶対に渡さない。…例えば他校のイカレた男なんかには特にね。」

遠くから噂の好きな子が呼ぶ声が聞こえる。

「俺もう行くけど」
「リョーマ、…って、え、あ、そのジャージ…!」
「それと、テニスは背丈でやるもんじゃないから。」

そろそろ次の試合が始まる時間のようだ。
名前が呼ぶ方へと向かう。


「何してたの?」
「恋バナとか」
「へ」
「帰ったらさ」

「俺の部屋きて。」


この大会が終わったらちゃんと話そう。
もう一度好きだと伝えてそして彼女になって欲しいと伝えるんだ。









亜久津は口だけの奴ではなかった。

試合が始まって何度も拮抗した状況に陥り、終いにはこれまでのテニス人生の、親父に負け続けたテニス人生の、走馬灯まで見えた始末だ。
変則的な攻撃リズム。逆を突かれた一本足のスプリットステップ。ポイントを落とすたびギャラリーの悲鳴が聞こえる。この試合を獲れば都大会優勝が決まる。後ろには手塚部長が控えていて俺が負けても大将戦に回るだけ、に見えるだろうが、それとは別に俺と名前だけがこの試合で背負っているものがある。亜久津は名前に言ったのだ。「負けたらお前が俺と遊べ」と。
負けるわけには当然行かない。いや例えそんな脅しがなくたって、俺はアンタには絶対に負けない。

「アンタはいい踏み台になるよ。」

やっと分かった。スプリットステップの本当の使い方。ノーステップで逆サイドへ移動する。何度も抜かれた脇に追いついてリターンを決めた。
周りが歓声を上げて盛り上がる中、名前だけが驚いていなかった。それがすごく嬉しくて。
この瞬間が永遠になる。その目に左右されて、自分が研ぎ澄まされていく、そんな感覚が心地良い。名前はいつだって俺がコートに立つとき前しか見ていない。



石を当てられたカチローの分
ジュースを頭にかけられた河村先輩の分
ボコボコにされた荒井先輩の分
俺も石ぶつけられた
それから、何より

今日も変わらず、心配な顔ひとつせず、信じてくれている名前をラケットを振りかざした視線の隅に感じる。うん、分かってるよ。
勢いを殺してドロップショットに切り変える。マッチポイントのボールは強打を警戒して身構えた亜久津の足元を転がっていった。









全ての日程を終え、都大会は幕を閉じた。あいつが姿を消す前に表彰式を終えたその足で追いかける。
試合をしてお互いのことが分かると言う人もいる。そうかもしれないし、確かに今日打ち合ってみて最悪な第一印象とは少し違う一面も見えた気もする。でもそれだけで全てを信用はできないし、言質を取っておきたい。

「ねえ」
「あっ、越前くん…!」

夕焼けの影が伸びる。
亜久津は、今朝試合前に色々と質問をしてきた男子と何かを話していたようだ。やはりこの男子も山吹中の生徒だったらしい。

「分かってると思うけど、」
「小僧」
「?」
「悪かったな。」

微かに聞き取れる声量で、確かに亜久津はそう言って。耳を疑った。確かにその話をしにきたのだが、こうもあっさり折れるとは。

「太一から聞いた。悪かった。あいつにも言っとけ。」
「聞いたって、」
「えっ何の話です?!ボクはメモを試合前に渡しただけで、…それもちょっと見てすぐに破られちゃいましたが。っていけない!調査がバレたです!ごめんなさいです越前くん!僕は君にも失礼なことをしたです!」

メモ?…ああ。 この太一と呼ばれる少年は何から何まで俺が言ったことを馬鹿正直に書き取っていたのだった。それをご丁寧に亜久津に渡したんだ。

「ふうん。ま、俺の勝ちだし、じゃあこの話はもう無かったことでいい?もう青学にも、名前にも余計なことしないってことで。」
「…テメェの女なら今度からはちゃんと手握っとけよ。」

そう吐き捨てて、亜久津は背を向け立ち去った。
姿が見えなくなる頃、太一が静かに口を開いた。


「悪い人じゃないです。みんな色々言うけど。」
「…そう。」


夕日が落ちていく。ボクもいつか選手としてコートに立てるかな、亜久津先輩みたいに、…越前くんみたいに。そう真面目な顔でこちらを見るので、手を振って自陣へと踵を返した。











帰宅して風呂に入って夕飯を食べて、自室で落ち着いた頃に控えめに扉が叩かれた。

「座って。」
「うん。」

遠慮がちに奥へと進む名前を座らせて、隣に腰を下ろした。

「今日は本当にお疲れ様。都大会優勝おめでと。」
「亜久津と話したよ。」

ぴく、と名前が僅かに反応する。
怯えた表情が垣間見えて、名前は元より何も悪くないのに。そんな顔をさせてしまったことに罪悪感で胸が詰まる。

「とりあえず解決。」
「…。」
「謝ってたよ、名前に。」
「…そっか。」
「そういうことで確かに伝えたから。はい。この話は終わり。」

暗い表情をする名前に向き合って手を取る。下を向くから、顔を見られたくないのかと思って、きっとそういうときって無理に覗かない方がいいだろうから。こちらに向けられた額に自らのそれを重ねた。コツン、と頭骨が鳴って、お互いの前髪がそれをくすぐった。

万事解決、というわけではないのだ。名前にとっては。亜久津が青学を襲来したのも、今回の試合が結果的に喧嘩試合になったことも、自分のせいだと名前は以前言っていた。そうじゃないよといくら人が言ったって、きっと名前は納得しないだろう。でも例えそれが亜久津じゃなくたって俺はできることなら名前には他の男と関わってほしくないのだ。

「俺、勝ったし。」
「うん。」
「大丈夫。」
「…うん。」

名前の薄い手の甲を撫でる。
女の子らしい華奢な手をこうして包むことくらいだ、せめて。こういうときに落ち込む名前に俺はいつも無力だ。

「みんなは小さいって言うけど」
「?」
「リョーマの手は、ちゃんと男の人の手だね。」

静かに呟く
名前の声が自室の空気を揺らした。

こちらがそうしたように、俺の手の甲を今度は名前の指が滑る。
血管が気になるのか軽く押しては離して、触感を楽しんでいるようにも見えた。大人しく遊ばれながら、確かに名前の手や腕には大して血管は浮き出ていないことに気付く。おうとつの少ない滑らかな肌。女の子なんだなあと改めて実感する。

重ねた手から、合わせた額から。お互いの熱と鼓動を感じる。
どんな顔をしているんだろう。目を伏せたままで名前のことを想う。

今夜部屋に招いたのは亜久津の話がしたかったのではない。
いつか名前が俺に言ったように、
今度は俺が小さく溢す。


「付き合う?」


ああ、どんな顔をするだろう。いつしか同じことを言われて「もっとよく知って、ちゃんと好きになって、ちゃんと付き合いたい」と伝えた。そしたら名前は少し泣きそうな顔をしていた。そして昨日「好き」と伝えた。そのとき名前は真っ赤な顔をしていた。
名前。好きだよ。
優しさと強さも誠実さも繊細さも全て彼女の魅力だ。分からない。名前のことはぜんぜん分からない。でも分からないところも含めて俺は名前のことが好きなんだと思う。
誰にでも向ける無償のやさしさを俺が否定していいわけがないんだから。名前は、それが名前なんだから。

「付き合いたい。」

繰り返す。名前が即答をくれないことについては全く気にならない。随分と待たせてしまったから、これくらい、いくらでも待てる。

「…私のことわかってくれた?」
「全然。でも好きなんだよね。」
「…そっか、ありがと。」
「うん。」
「でもね。」
「うん。」
「やっぱりチームのバランス、崩れちゃうかなとか、一応色々と考えるんだよ。」

何を言い出すかと思えば。
足踏みをするようなことを言い出す名前に思わず笑った。そんなの今更。

「今更こんなことでどうこうなる青学じゃなくない?」
「好きで、好きなだけじゃだめ?」

照れ隠しなのか。散々待たせた俺への当て付けなのか。渋々と言い訳を並べてなかなか首を縦に振らない名前は、もはや俺と一緒になって笑ってしまっていた。

「だめ。特別扱いしてよ。」
「リョーマを?」
「そ。」

指を絡める。顔を上げると目が合って、吸い寄せられるように距離が近づく。見つめ合う、その視線ひとつで俺の気持ちが全部名前に伝わればいいのにと臆病なことを考えてはクリアになっていく。あと少し、あと少しで重なるのに、というところで名前は名前らしくやはり顔を背けるのだった。

「付き合ってない人とはキスはしないよ。」
「じゃあ付き合おうよ。いま、すぐに。」
「なにそれ。」
「ねえ、名前。」

眉を下げて笑う名前を捕まえて腰を引き寄せる。

「好き。付き合って。」

くすくすと、鈴を転がすように笑う。大好きな笑顔が、いよいよ頷いたのを確認して。唇を重ねた。



重ねた柔らかな唇を、少し離して名前は言う。


「好きだよリョーマ。」








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