サンダルウッドの情念
33.ご機嫌伺い


晴れて名前と付き合い始めたものの、何が変わったかと聞かれると正直これといって劇的な変化があるわけではない。
朝起きて廊下や洗面所などでおはようと言って、朝ごはんを食べて、タイミングが合えば一緒に学校へ向かう。俺が寝坊をした日なんかは朝練のコートで名前は呆れたように笑っておはようと挨拶をする。1日の授業を終えて部活に出て、これまたタイミングが合えば一緒に帰る。二人きりになれば恥ずかしがる名前の手を俺が強引にとって歩く。いつものことだった。

ただ、同じ家で生活しながらもお互いの部屋に入ることはほとんどなかったのだけれど、いわゆる恋人、になってからは週末になると夜はどちらかの部屋で過ごすようになった。
とはいえ眠るまで、だ。なんでもない雑談をして、課題やゲームや読書をするなどして、どちらかがあくびをしたら部屋に戻る。最初はそれこそ少し寂しかったしもう少し、なんて思ったりもしたけれど、今はこの距離感が心地いい。


今日とて名前の部屋を訪れて先週読んだ漫画の続きを手に取った。

「そういえば桃から聞いたよ。」
「?」
「バスケ部の人と喧嘩してたって。」
「け、喧嘩じゃないし!」

思わず顔を上げれば名前はケタケタと笑っていて、まあ、喧嘩といえば、そうなのかもしれないが。

「売ってきたのはあっちだし…」
「はいはい。目立つのも程々にね?」

掃除当番で屋外の掃除をしていたら邪魔をしてきたバスケ部の男がいたのだ。少し言い合いになって結果的にフリースロー対決をすることになって。向こうはバスケットボール、こちらはテニスボールと箒とで。最後には通りかかった桃先輩から受け取ったラケットでトドメを刺して成敗。



 『サンキュー桃先輩。』
 『いいってことよ。お前また面白いことやってんな。もしかしてあいつらまた名前に絡もうとしてたのか?』
 『は?なにそれ。』
 『あ〜… まあ、今のは忘れてくれ。』
 『ってわけにはいかないっすよね。』
 『いかねえよなあ…。まあ簡単に説明するとだな』

過去に、名前に一目惚れしたそのバスケ部員が自信満々に告白するも惨敗。諦めの悪いそいつは今度は仲間を増やして名前に近づくも今度は通りすがりの手塚部長のひと睨みに怖気付いて逃走。
…ということがあったそうだ。



「俺も大概だけど名前もだよね…」
「え、なんのこと?」
「トラブルメーカーというか…」
「ちょっと、それリョーマにだけは言われたくないんだけど!」

むくれる顔も可愛いと思うから参る。俺の読んでた漫画を取り上げて睨みつけてくるんだから、まあ全然怖くないんだけど。

「ごめんごめん。」
「んむ、」

ご機嫌とりに、口付ける。そうすると途端に静かになってしまうんだからついおかしくて笑ってしまう。突き返された漫画を受け取ってページを開く。しおらしくなった名前に寄りかかると「重い」と文句を言われた。










都大会が終わって早々、落ち着く間も無く関東大会に向けての6月期校内ランキング戦が始まった。
レギュラーになれるのは8名のみ。振り分けられた4ブロックで上位2位に残るのが条件だ。

順当に現レギュラー陣が勝ち上がり、続投を決めていく。かくいう自分も粘り強い大石副部長になんとか勝って結果全勝で通過した。
しかしAブロック。手塚部長、桃先輩、そして正レギュラー返り咲きを目論む乾先輩が属するグループは波乱の展開があり、なんと桃先輩がレギュラー落ちすることとなった。そしてその日、桃先輩はレギュラージャージを置いて姿を消した。


桃先輩が部活に来なくなって経過すること数日。ゴールデンペアはギスギスしているし、同期のやつらは余計な詮索しようとしてくるし。
そんな異様な雰囲気の中で名前は大石副部長や菊丸先輩をはじめ部員一人一人に声をかけていた。見るところそれぞれとただ雑談をしているようだったが、そうやって名前はみんなと談笑をして部のバランスを保とうとしているんだと思う。

「頭が上がらないよ、あいつには。」

ドリンクを飲み干した大石副部長が名前の後ろ姿を見てぽつりと呟いた。

「それにしても越前。」
「はい?」
「あんまりそんな怖い顔で見てくれるなよ。」

大石副部長は眉を下げて笑って、こちらの肩を軽く叩いた。怖い顔って、なに。そんなつもり無いけど…




名前は名前で部のために頑張っている。だからといって俺がみんなや桃先輩のために何ができるというわけではないけれど。

あんなに毎日楽しそうにテニスをしていた桃先輩が簡単にラケットを手放すとは思えない。学校のコートでないとすれば、次に桃先輩が現れそうな場所。ひとつ心当たりがあった。

「あれ、どこいくの?もう部活始まるよ。」

放課後、ジャージに着替えてそっと部室を出ると名前に呼び止められた。練習着の名前は後ろ髪を束ねながらやってきて俺の背負ったラケットバッグを見て目を細めた。多分バレてる。

「ちょっと野暮用。」
「そう。遅くならないようにね。」
「名前も来る?」
「ううん。それはリョーマに任せるよ。」

桃先輩はきっと名前がいた方がまともに話を聞いてくれそうだけど、別に俺は説得をしたいわけではないし。名前はふわりと一瞬俺の背中に触れ、俺の目を見て頷いた。




向かうはストリートテニスのコート。
勘だった。多分ここだろう。心配だなんて大層なものではないけれど桃先輩は今もきっとどこかでテニスをしていると思ったのだった。

「ねぇサボリっすか桃先輩?」

階段を上がると、そこには案の定桃先輩、が、思いの外大人数に囲まれていた。そこはかとなく険悪な雰囲気。なんだ元気そうじゃん。

「越前くんいいとこに…!今ね、」
「お前が例の青学1年レギュラーか。」

桃先輩と一緒にいるのは確か不動峰の部長さんの妹と、そして偉そうに群れてる奴らが、都大会のコンソレーションで聖ルドルフを破って関東大会に駒を進めたという、氷帝学園。


「ふん。青学か。手塚に不二、いい選手が揃ってやがる。まあうちには及ばないが。」

猿山の大将は高圧的な視線をこちらに飛ばし、関東大会で完膚なきまでに倒す、などとハッタリをかましてくる。望むところだ。

「…それから例のマネージャー。」
「は?」

跡部というらしい氷帝のボスはうちのマネージャー、つまり名前のことを言及して苦虫を潰すような顔をした。

「堪忍な。そういうんじゃないで。女マネージャーなんてアイドルよろしく物珍しさに人気はあるみたいやけど、俺らとあの子はそういうのとはちゃうくてな。」
「?」
「恐ろしい女やで。あの跡部に顔色変えずに笑いかけるんや。“普通に”な。」

不二先輩がいつか言ったことを思い出す。
みんなに優しいというのは、誰のことも特別じゃないということだと。
そうだ名前は誰にだって笑う。でもそれって。

「あんたたちが自信家なのはよく分かったけど相手にされなかったことを人のせいにするのは違うんじゃない。」
「その言い方じゃあまるでてめえは違うと聞こえるぜ。」
「そうだね。俺には違う。俺は名前の“特別”だよ。」

跡部って人も、その取り巻きも、それからついでに桃先輩も、俺の言うことにギョと目を見開いた。そうやって手を握っとけと先日亜久津にも言われたところだ。いくら人が興味本位近づこうと、名前は俺の彼女だ。

「おいお前、越前とか言ったか。」
「そうだけど。」
「あいつの、名字の弱みにつけ込みでもしたのか?」
「は?弱みって、」

つけ込む?なにそれ。
思わず反論した一方で、家の事情を明かしてくれたあの日の名前の泣き顔がフラッシュバックする。

「ふん、図星か。あいつも化けの皮が剥がれれば鬼もただの女ってか。安心したよ。」
「そういうの逆恨みって言うんじゃないの。」
「ま、どうでもいいが。人のもん欲しがるほど器は小さくねえ。」
「あっそ。」
「行くぞ樺地。」


薄ら笑いを吐いて氷帝の一行は去っていった。


残された異様な空気を溜め息で誤魔化す。

「で、桃先輩。行きます?部活。」
「そうだな。ああ何周走らされることやら。」
「早く行かないと遅刻っすよ。」
「へいへい。ていうかお前ら遂にくっついたか?」
「…まあ。」
「そうか。よかったな。」

桃先輩はホッとしたような顔で笑った。それがどこか寂しそうにも見えるのは俺の気のせいだろうか。しかし桃先輩はいつもの桃先輩だ。あっけらかんとしている。人がいくら心配しても、今日俺がわざわざ来なくても、簡単には変わらない。桃先輩はやっぱりこういう人だ。


「弱みだなんだか知らないけどよ、あいつがつらかったときにそこに居たのがお前なんだ。自信持てよ。」
「…」


桃先輩はバッグを背負って遠くを見つめる。


「俺たちにはできなかったんだ。見るたび痩せてくあいつが元気に今も部活に出てきてくれてること、お前には感謝してるんだぜ。」







≪前 | 次≫
←main