サンダルウッドの情念
34.誰の事


無事桃先輩は部活に復帰し、関東大会の組み合わせも発表され、部の雰囲気は上々だ。抽選会の結果、初戦はいきなり氷帝と当たることとなったようだ。どーせ当たるんだしとっとと倒せていいんじゃない。選手層が厚いとか監督の方針がスパルタだとか関係ない。全国に行くと改めて手塚部長は宣言した。まだまだお前にはそのショットは無理だなと親父が笑う。やってみなきゃわかんないだろ。寺のコートで汗を拭う。名前が見ている。次の一球で絶対に決めて必勝祈願をしよう。






「部屋、来る?」

夕食後、居間でカルピンをこねている名前に小声で尋ねる。

「明日早いからやめとく。寝坊したら困るし。」

ちぇ。やっぱり振られたか。ゴロゴロ。のどを鳴らしてひっくり返るカルピンの腹を撫でる。名前が家に来てしばらく経って、もうすっかりカルピンは名前に気を許していた。
親父は転がって新聞を読んでいる。母親は背を向け食器洗い。菜々子さんは風呂に行ったはず。
部屋に来て欲しいというのは話がしたいとか二人で過ごしたいとか、そういうのもそうなんだけど、まあ俺も男なもので。

「…」

音を立てないように
家族の目を盗んで、そっと名前のそれに唇を重ねた。

「…っ!!ちょ、っと!」
「ほあら?」

カルピンだけがそれを見ていたけれど。
名前は真っ赤な顔をして咄嗟に肩を押し返してきたので笑ってやると次にはバシンと叩かれた。いいじゃんこれくらい。
付き合い始めてから何度かキスをした。でも毎回こうやって面白い反応をされるんだから揶揄いたくもなる。

「なんだあ?喧嘩か?」

新聞(の間に挟んだ雑誌)を読んでいた親父が楽しそうに振り返る。

「まあね。じゃ、おやすみ。」

怒られる前に逃げよ。さっさと居間を出て行くと母が呆れたように「ああいうところお父さんそっくりよね」とこぼす声が聞こえた。えっ。







翌日、関東大会初戦の日。あと15分で選手登録しないとエントリーに間に合わない。そんな中で大石副部長が珍しく遅刻をしているので何事かと思えば。

「あっ!大石副部長やっと繋がった!…えっ、子どもが産まれそうな妊婦さんを助けて近くの病院に…?!」

名前が大石副部長と連絡を取ってくれて、桃先輩はその病院に向かって駆け出した。が、戻ってきたのは大石副部長ではなく、レギュラージャージを握りしめた桃先輩。大石副部長は、転倒しそうな妊婦さんを庇って腕を痛めたそうだ。

「暴れてやりましょうよ桃先輩。」
「…ああ。」
「桃、ちょっと来て。」
「お?」


オーダーが発表される。代打で菊丸先輩と組むことになった桃先輩は名前に連れられてベンチに座った。ものすごい近い距離感で向かい合い何かしてる。

「ひ〜!くすぐってえ!」
「はい、はい、オッケーです。次お願いします。」

何事かと思って見てみると、電話で大石副部長から試合のアドバイスを聞き取って、それを桃先輩の腕に書き込んでいるようだった。その名もダブルスを制する36ヶ条。

「なんだよ越前お前も何か書いてもらうか?」
「うるさい。」
「でもお前補欠だからな〜」
「…」

棚ぼたで自分が試合出れるからって桃先輩め。今回の俺が補欠になったのは、相手のオーダーを予想した結果のことだそうだ。乾先輩がそう言うなら俺に選択権ないし…
それにしても近い。名前は真剣に電話口の大石副部長の声に耳を傾けている。桃先輩の両膝の間に今にもすっぽりと収まってしまいそうな距離だった。

「妬かない妬かない〜」
「そんなんじゃないってば。」
「ちょっと桃動かないで。」
「へいへい。」

ニヤリ。満足げにこちらを見る桃先輩は完全に俺を挑発してる。くそ。今度なんか奢らせてやる。






お高くとまった印象だった氷帝学園は思いの外泥臭い試合をする学校で、パワー勝負になったシングルス3の河村先輩とその対戦相手は両者腕を壊してノーゲームとなった。
戦況は一勝一敗一分。勝利にはあと二勝が必要。残るは不二先輩のS2と手塚部長のS1…

「よかった、骨は大丈夫そうですね。」
「早めに外科の先生に見せた方がいいな。樺地くんも連れて行くがよいかな?」
「それでしたら私が!」
「いいや。お前は残りな。この試合を止めなかったアタシに責任がある。これくらいさせとくれ。後は頼むぞ手塚。誰かアタシの分かりにベンチコーチを…」

病院への引率を名乗り出た名前をおばさんは制してコートを出た。マネージャーはベンチコーチをすることはできない。できるのは教員か、登録された選手だけだ。

「いーっスね。こっちの方が背もたれがあって。」

せっかく面白い試合がこれから2つも控えてる。ちょうど良い席も空いたし、近くで見せてもらいますよ先輩たち。
不二先輩はいつもの調子で鮮やかに勝利を収め、次はいよいよ手塚部長の試合だ。
他校からのギャラリーも一段の増え、大歓声の中跡部がジャージを天高く脱ぎ捨てた。



「ねえ、あの跡部って人そんなに強いの。」
「強いよ。」

振り返ってすぐ後ろの名前に尋ねると深刻そうな顔をしてそう言った。

「…そんなに?」
「大丈夫って簡単に言えないくらいには、強いの。」



試合開始のアナウンスが鳴り響く。
怒涛のラリーに益々会場のボルテージは上がって行く。跡部は相手の弱点を見抜く眼力はズバ抜けて高いのだと、観客の誰かが言った。1ポイントごとのラリーがひどく長い。高らかに跡部は笑って言い放つ。


「やるじゃねーのよ手塚。…そんな腕で。」





 『…強い人ほど隠すのが上手くてほんと困っちゃう。それで無理して故障しちゃうんだから目も当てられないじゃん。』


俺が左目を怪我したとき、名前は遠くを見ながらそう言っていた。そのときは誰のことを言っているのだろうと思ったのだけれど、多分、それは――――



ひどく長い試合だ。跡部の狙いは恐らく持久戦で部長の腕を潰すこと。部長はそれでいてあえて持久戦に挑むことに腹を決めたようだった。

試合開始からゆうに1時間半は経過した頃、ついにそのときはきた。普段表情をひとつ変えず常に規律正しく俺たちを引っ張ってきた部長が、肩を抱えて悲鳴をあげたのだった。



ベンチに戻ってきた手塚部長に周りは口々に棄権をすすめた。恐らくこの負傷は今後のテニス生命を左右するもの。でもいつだって決めるのは結局は自分だ。自分の心だ。だから俺が瞼を切ったときも止めないでくれたんだよね、名前。

「俺に勝っといて負けんな。」

この試合が万が一のことがあれば二勝二敗で補欠同士の試合となる。結果がどうなろうと手塚部長は最後まで試合をやり切るのだろう。

「俺は負けない。」


桃先輩にバッグを差し出されアップに向かう。最前列でコートを見つめる名前の横顔には一筋涙が伝っていた。







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