サンダルウッドの情念
35.ペース配分



すごい試合を見た。想像を超える永遠にも思えるタイブレークの末、自身の肩を犠牲にした手塚部長は惜敗した。

「2か月前に高架下のコートで言った事、覚えているか。」


日吉との試合が始まる。血が巡っていた。いつもより激しく。100ゲームする?なんて割と本気で言ってる。自分が。
汗が滝のように流れる。フェンスを握りしめてこちらを見ている恋人に向かって邪魔な帽子を放り投げた。


 越前お前は青学の柱になれ





試合が終わって整列する。まだ身体の奥で血が沸騰している。今ならなんだってできる気がする。コートを出ると名前と目が合う。手にはさっき投げた帽子が握られていた。今ならなんでも許されるような気分で、手を引いて人目のない場所へと連れて行く。汗が流れていく。体が熱い。

「リョーマどうしたの…?」
「…」
「汗すごいよ、クールダウンしないと。」

集計所の裏へ連れて行く。遠くから賑やかな声が聞こえる。名前を壁際に追いやって抱きしめると、勢いに負けて名前の背中が壁についた。

「…」
「……」

長い沈黙に、名前と触れ合う個所に神経が集中していく。柔らかい。女性らしい曲線と弾力に心臓がバクバクと暴れる。
角度を変えて何度も体を寄せた。形を覚えるように背中の全てに手を這わせるとされるがままになっていた名前は身をよじってこちらを肩を押した。

「ねえ、変だよリョーマ、」
「そうかも」
「もう戻ろう?」

戻る?こんなに体が熱くてこんなに気分がいいのに?肩を押す手を下させてもういちど密接する。一ミリも離れたくなくて強く強く抱きしめると名前から潰れた声が聞こえた。足りない、足りない。あらわなうなじをくすぐって、ゆっくりと下へ降りていく。息が上がっていく。背骨のおうとつの一つ一つを撫でて細い腰を捕まえれば、名前の身体が跳ねた。

「だめ、離して」
「やだ」

抵抗する名前を捕まえる。赤色が目に飛び込んできた。唇。粘膜の赤さに目が眩む。思わず顔を近づけて自分のそれと重ね――ようとするも名前はこちらの口を手で覆って押し返してきた。

「なんで逃げるの。」
「そういうことじゃなくて。私今から病院行かないと。」
「病院?」
「手塚部長の病院。付き添いで行ってくるの。」
「…ねえ、俺と付き合ってんじゃないの。付き添いなんて誰でもできんじゃん。」
「リョーマ。何言ってるの?」
「俺より部長をとるわけ?」


バチン


乾いた音に驚いて、顔を上げれば目が合った。頬がジンジンと痺れてやっと叩かれたのだと気付いた。
名前は今にも泣きそうな顔をしていた。


「今はそうだよ。少なくとも。今のリョーマよりは怪我をしている人をとるよ。」


血の流れる音が耳元で鳴り響く。綺麗な目が真っ赤に充血して、覆っていた水の膜がゆらりと波打った。

「ごめ、」
「…頭冷やして。冷えてから戻ってきて。」

名前は俺の腕を振り払って壁との間を抜け出し帽子を俺に突き返した。背を向けた震える肩を本当は引き留めたいのに、動けなかった。



「…叩いてごめんなさい。」

小さく溢して、名前は走っていった。












氷帝と戦った次の日、竜崎先生のはからいでボーリング大会が開かれた。くじ引きで決めた相手とペアを組んでスコアを競うそうだ。

昨日帰宅してからも名前は怒っているような悲しんでいるような、とにかく目が合わなくて、いつもは軽い調子の父親も流石に察したようで、名前が部屋に戻ったころこっそりと俺に大丈夫か?なんて聞いてきた。今思えば恥ずかしい。試合後のハイになった状態で名前に勝手なことをして、勝手なことを言った。怒るのも当然である。

怪我を抱えた手塚部長と河村先輩は今日のボーリング大会は見学とのことで、まあそれは分かるんだけど、名前も見学すると言い出すからさすがに罪悪感に苛まれる。

「あんれ、名前ちゃんやらないの?」
「あんまり得意じゃなくて。見てる方が好きです。」
「じゃあ俺がいっぱい決めるところ見ててくんろー!」

ガーターを出した者および最下位のチームは乾先輩の変な汁を飲まされるという嫌なルールが発表され、気を散らしてもいられない。
ゲームに向き合い、ふと視線をやると名前は手塚部長の隣に座っていて、そして少しした頃にまた見ると二人の姿は消えていた。なんだよそれ。

親睦会を終えて店の外に出ると、解散の挨拶とともに竜崎先生から強烈な事実を突きつけられた。


「手塚は明日から九州へ行く事になった。」





 ***





「越前と喧嘩でもしたのか。」

親睦会の終盤、一足先にボーリング場を出た手塚と名前は屋外のベンチに腰をかけた。

「あー…まあ喧嘩というか、私が意地を張ってるだけでして…。」
「お前たちが最近付き合い始めたと不二から聞いた。不二は菊丸から聞いて、菊丸は…確か桃城から聞いたと言っていた。」
「隠しているつもりはなかったのですが…すみません今回のことといい、私情は持ち込んだらダメですね。」
「大会の合間だ。別に構わん。当日にやられたらさすがに口を出させてもらうが。…だから俺が話したかったのもこのことではない。」

手塚は自身の左肩を撫でて空を見上げた。もうすぐ夏が来る。そんな空だった。

「肩の治療で、九州へ行く事になった。」
「そう、ですか。」
「宮崎に、青学付属の病院があるそうだ。」
「それで九州へ…。そうですね。今はとにかく専念された方がいいと思います。」
「苦労をかけるな、お前には、いつも。」
「いいえ、私は。」

夏服を風が抜けて行く。思い出すのは一年前の事。

「あのときも、今も。私は見ていることしか出来ませんでしたから。」





手塚が一年生の時に負った古傷が影響し、左肘がいよいよ潰れたのが二年生のときのことだった。

肘を抱えて蹲った手塚を名前は責めた。どうして隠していた。どうして治療を怠った。あなたのような選手は自分を一番大切にしなければならないのに。

入部してすぐの頃、上級生に利き腕をラケットで殴られた、それを知っているのは当時のその場にいた二、三年と大石だけ。本当はすぐにでも医者に診てもらうべきだった。だが当時の部長にその流れのままランニングをさせられ、殴られた事実すら有耶無耶となり、手塚は柱を背負わされ、左腕の傷を隠した。




「どんなに本人が大したことないと思っても、怪我はやっぱり怖いです。」
「…俺はそれでも成し遂げたかった。この腕がどうなろうと。」
「柱だから、ですか。」
「いや、俺が、叶えたかったんだ。」

二年の秋、ジュニア選抜の話が手塚にきたが、怪我の再発で断ざるを得なかった。それから過度な練習は控え、極力公式戦は手塚を温存した。その間も手塚は他人に厳しくそして更に自分に厳しく、いつだって部の柱だった。故障した肘は完治したかのように思えた。しかしここへきて先の氷帝戦で今度は肩を壊してしまった。

「次の試合、緑山中に勝って関東ベスト4に入れば全国行きが決まる。あとは頼んだぞ。」
「やめてください、そんな最後みたいな言い方。」

肘も、そして肩も。症状としては深刻なものだ。それは跡部との試合での手塚の歪んだ表情を見れば誰だって量り知るものであるし何より手塚本人が一番よくわかっていた。
だから、一度治療に専念するとなればそうすぐには帰ってこれないということは、名前も察していた。

「…部長が団体での全国にこだわってきたこと、みんなよく分かっています。ここまで来れたのは、そして全国に行くというのは、きっと部長がいなければ実現しないことでした。」

泣きたいのはきっと自分ではない。誰よりも願って、誰よりも悔しくて、誰よりもつらいのは手塚自身だ。だから名前は涙を飲み込んだ。

「もうただのお綺麗な名門じゃなく、今の青学は勝てるチームです。心配いりません。ですから手塚部長はどうかお身体を大切に。」
「名字。ありがとう。」


お前がマネージャーとして入ってくれて本当に良かった。

名前の瞳に貯まった煌めくそれを指ですくって、手塚は短く、すまない、と言った。






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