サンダルウッドの情念
4.夕焼けの影法師



今日は石階段の箒がけをして、そのあとはひたすらサーブ練習をした。そろそろ試合がしたい。日本に来てからは特に大会に出るわけではなく父親と石壁とばかり打ち合っている。
今日は父親がふらりと出かけていったので、無人の対面コートにひたすらサーブを打ち込む。寺までついてきたカルピンがボールに飛びつこうとするので見兼ねて摘み出した。
日が暮れてきた頃に遠くから階段を上がってくる足音がした。親父やっと戻ってきた…と思ったら。
振り返ると夕焼け色の空に、華奢なシルエット。
「あ、」
名前だ。

「お疲れ様。下から音が聞こえてきたからいるかなあと思って。見にきちゃった。」
「部活帰り?」
「うん。ただいま。」
「おかえり。そっちもお疲れ。」

名前はベンチに腰掛けて鞄を下ろすと、ふう、とため息をついた。その足元にのそのそと近付いたカルピンは頭を擦り付けた。

「ほぁら〜」
「あら猫ちゃん。こんにちは。」
「ほぁら」
「リョーマのお友達?」
「飼い猫。」
「人なっこいね。可愛い。」

名前の後ろ髪にはいつもは無いクセがついていた。
部活帰りというのに制服を着ているのは学校の規則だろうか。どうせ着替えるのだからジャージで登下校した方がラクなのにと思うがそういうところにすごく日本らしさを感じる。ちなみにこれは褒めてはいない。

「あ、手止めさせちゃったね。気にせず続けて。私見てるの好きなの。」
「物好きだね。」

言われるままにラケットを握り直しコーナー目掛けてサーブを放つ。狙ったライン上にしっかり入って、カルピンを膝の上に乗せた名前が小さく拍手をした。もう仲良くなってるし…

「ほんとうに綺麗なフォームだね。見るたびに違う手で打っているけど、本当の利き手はどっちなの?左?」
「まあね。」
「わあ、怖いなあ。」

肩を竦めて笑う名前にまんまと煽てられ何度でも狙ったポイントを打ち抜くと彼女はまた目を輝かせる。「カルピンも気になる?」なんて愛猫に話しかけるのが無性にくすぐったかった。



自主練を終えて家に戻ると父親に呼び出され、客間に向かうと見たことのあるおばさんいた。父親の恩師、竜崎すみれだった。
おばさんとは父親に連れられて会ったことがある。俺たち家族が日本に来たのを聞きつけて訪ねてきたそうだ。
そしておばさんの提案で、肩慣らしとして数日後に柿ノ木坂で開催されるジュニアテニストーナメントに出場しないかと告げられる。

***

が、結局当日になるとトラブルで試合には出れず、野試合でビッグマウスな男を黙らせたがそれもあまり達成感なく。不完全燃焼で帰路についた。

帰る前に壁打ちでもするか、と寺に続く階段を登ろうと足をかけたところで聞き慣れた声に呼び止められた。

「おかえりなさい。…て、なにその怪我!」
「…ただいま。」
「来て!」
「ちょ、」

名前に大きな声を出されたのは初めてでびっくりした。突然手を引かれ、名前の家まで連れてかれた。

「上がって。誰もいないから。」
「これくらい別にいい。」
「リョーマ。」

真っ直ぐに。真っ直ぐに目を見られて口を閉じるしかなかった。

「…」
「ラケット背負ってるってことは試合でやったの?」
「…」
「どうしてテニスで顔を怪我するの?」
「転んだ。」
「…。言いたくないならいいけど…。」

挑発して怪我をくらうなんて説明するのもバカみたいで言葉を飲み込んだ。
態度の悪いプレイヤーにラケットを顔にぶつけられて出血した傷だが今はそんなに痛くない。

「…本当に大したことないから。」
「…」
「…」
「……そこ座って。」

居間に通されると座るように促された。
名前は救急箱を戸棚から持ってくると正面に座った。帽子をとられて、次には前髪をかき上げられた。額の傷をまじまじと見られる。

「…ねえ、近くない?」
「怪我する方が悪い。」
「痛っ」
「じっとして。」

ガーゼに消毒液を吹きかけると容赦なく傷口に抑えた。力加減こそ優しいが怒っているように思う。怪我したのは俺なのになんであんたが怒ってんの。

「はい、おしまい。」
「…サンキュ。」
「傷は深くなかったからすぐ治ると思う。」
「だからそう言ったじゃん。」
「…」

絆創膏の縁をなぞるようにそうっと指の腹で顔を撫でられた。
どうしてこんなに機嫌が悪いのか、それも気になるけれど、とにかく距離が近くでビックリする。そこに顔があって今例えばデコピンをしたらどうなるだろうとか、頬をつついてみたら、鼻を摘んだら、くすぐってやったら。名前は一体どんな顔をするんだろう。

あまりに無防備な様子に好奇心と良心が心臓の裏側で決闘する。思い切って目をじっと見てみると、気付いた名前も同じくじっと見返してきた。名前は目を逸らさずこちらを見ていたが、眉間のシワが次第に抜けていって、いつもの優しい目になってきた。そしてみるみる眉尻が下がって今度は情けない顔になる。

「…リョーマ?」

名前から小さな声が漏れた。ハッとすると、知らず知らずに随分と顔が近くなっていたらしい。咳払いでお茶を濁しそっと距離を取った。

「…ていうかさっきまで怒ってなかった?なんで?」
「………。転んだにしては体は綺麗だし。だから、危ないことしたのかなって。それで…」
「うん。…心配かけてごめん。」

自分のことでこんなに真剣になってくれる。
もしかしたら名前は他の人にもそうなのかもしれないけれど、今だけは勘違いをしてその優しさに自惚れることにした。



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