サンダルウッドの情念
38.ひとつ知ってしまえば



緑山中との試合に快勝し、関東大会ベスト4に進出した青学は全国大会進出を決めた。
午後は準決勝。相手は六角中。
六角は千葉の古豪で青学とは古くから親交があるらしく特に三年生同士はお互い手の内を知っているという感じだ。
河村先輩と桃先輩、不二先輩と菊丸先輩のダブルスペア、そして海堂先輩のシングルスでそれぞれ勝ち星を挙げ、ストレートで青学の勝利となった。

そしてもうひとつの準決勝では、立海大が不動峰をストレートで破っていた。




関東大会決勝進出の余韻もそこそこに、学校に戻ると顧問のおばさんから映像を見るように言われた。そこには立海大と不動峰の試合の模様が記録されていた。俺は見なかった。だって会場でアップしているときにすでにこの目で見たのだから。脳裏に焼き付く、全国区の実力とされている不動峰の部長 橘さんを圧倒的な力でねじ伏せた立海大二年生エース、切原の目が。









「さっき試していたの、新しいドライブ?」
寺のコートで自主練をして一区切りでベンチに腰掛けると名前にドリンクを差し出された。
「オフくらいマネージャー稼業休めばいいのに。」
「リョーマだってオフなのにテニスしてる。」
「…。」

蝉の声がする。7月下旬に差し掛かり夏真っ盛りだ。眩しそうに日差しを手で覆う名前はこちらを振り返った。

「私、家寄るからリョーマ先帰ってて。」
「家?」
「そう、たまには換気くらいしないとね。湿気がが溜まっちゃう。」

名前の言う家とは、名字家のことだ。今は両親が不在なため越前家で暮らしている名前だが、時々は自分の家に帰って掃除をしているらしい。

「手伝う?」

ドリンクボトルに栓をして尋ねれば、いつもなら大丈夫、と言いそうな名前が珍しく首を縦に振った。

「ありがとう。お願いしようかな。練習はもういいの?」
「暑いから一旦休憩。もう少し日が落ちたらまた来る。」



寺の門を抜けて階段を下り、久しぶりに名前の家に来た。数ヶ月前にうちで暮らすことが決まった日、迎えに来た以来だ。
玄関の扉を開けるとこもった熱を感じ、汗がじわりと滲む。

「うわ、やっぱりあっついね。全部の部屋の窓開けてくれる?私掃除機かけてくる。」

全部の部屋。入っていいのか。
ひと気の無い静かな廊下を進み、各部屋の窓を開けていく。網戸ごしにぬるりと生ぬるい風が吹き込んで、外からは蝉の声、家の奥からは掃除機の音が聞こえる。時間がやけにゆっくりに進んでいるような感覚がする。
名前の父親は寺の住職をしていたそうだ。その関係かこの家は寺のような香りがする。オリエンタルな、落ち着く香り。名前と初めて会ったときもこの和風な香りがしていた。

この家の奥まで上がるのは初めてのはずなのにどこか懐かしいような気持ちになって深呼吸をした。さて、一階はある程度回ったのであとは二階だ。
一つ一つの部屋の換気をしていくと、その中にシングルベッドが置かれた部屋があった。それから勉強机と、クローゼット。ここってもしかして。

「こら、そんなところで立ち止まってると吸っちゃうよ。」

後ろから声をかけられて肩が跳ねた。こつんと足を掃除機で小突いてきて名前は悪戯っぽく笑った。

「…ここ名前の部屋?」
「そう。」

脇をすり抜けて自室に入ると慣れたように掃除機をかけて名前は次の部屋へと行ってしまった。
名前の部屋。
ベッドの頭側にある窓を開くとやっぱりぬるい風が入ってきてレースカーテンが控えめに揺れた。いい天気だ。名前のベッドのマットレスに腰掛ける。来たこともないはずなのに何故か落ち着く。この香りの正体がなんなのかは知らない。深く息を吸えば瞼が重くなる。まあいっか。横になって目を閉じると遠くで聞こえていた掃除機の音が止まった。


「寝てるの?」

しばらく微睡んでいると顔を覗き込まれて影になった。思わずその後頭部に腕を回して引き寄せれば唇が重なる。

「…リョーマ、なんか疲れてる?」

唇を離すと名前はベッドに腰を下ろしてこちらを振り返り、俺の前髪を撫でた。

「そうじゃないけど、なんか眠くなる。」
「ちょっと寝ていく?」
「一緒に寝ようよ。」

壁側に寄って名前を招くスペースを作る。名前は困ったように笑って、汗かいちゃったからなあと言った。俺は気にしないけど。

腕を引けば渋々ベッドに上がってきて、お互い横になれば至近距離で目が合った。吸い込まれるようにキスをして、背中を引き寄せ抱きしめる。されるがままになっている名前の髪の匂いをかぐと、もううちにきてしばらく経っているからか寺のようなあの香りはしなくて、なんだか不思議な気分になった。

「ねえ、暑い…」

胸の中でそんな小さな文句が聞こえる。確かに汗ばむ額の、前髪を開き分けてキスを落とすとそんな文句も静かになる。密着した身体から互いの熱と心臓の音を感じる。埋まっていた顔を上げさせて唇を食む。離れては口を付けて、また目が合っては瞼を閉じて。繰り返す触れるだけのキスの途中で、名前の唇から熱い息が漏れた。薄く開いたそこに思わず噛み付く。驚いたように声を上げた名前の肩をもつれるように押して、気付いた時には名前は俺の下敷きになって一層身体は密着した。汗が流れる。蝉の声がする。苦しそうに酸素を求めた唇に舌を滑り込ませその赤い舌を絡め取った。

「ん、ぅ、…っ」

深い、深いキスをする。絡まる口内から淫らな水音と、くぐもった声がする。その声のあまりに甘さに脳が痺れる。夢中になって舌と、歯列と、唇とを追いかける。角度を変えては吸い付いて、そのたび一層甘い声があがる。

「りょ、ま、」

最初こそ必死にこちらの背中に腕をしがみついていた名前は、いつの間にか腕をだらんと枕元に投げてしまっていた。
思うより長い時間が経っていたのかもしれない、名前を呼ばれてハッと顔を起こせば、真っ赤な顔で眼を潤ませた名前が力なくこちらを見上げていた。

「…、」
「くるしい、から、ちょっと待って、」

なんて顔で見るんだ。
とろんと溶け切った表情に、そうさせたのは自分なのだと思い知って心臓が痛くなる。肩で息をする名前はこちらの胸中を知るよしもなく不思議そうな顔で見上げてくる。このまま雪崩れ込んでしまえば簡単に食べてしまえそうな名前を、でもダメだと理性が鐘を鳴らす。

「…はあ。」

肺の中身を吐き出して、体を起こす。何も分かっていない名前の髪をぐちゃぐちゃに撫でて顔を背けた。

「暑くて寝てらんない。帰ろ。」
「う、うん。…あれ。」
「…どうしたの。」
「力が入んなくて、…起き上がれない。」

どうしよ、と申し訳なさそうに眉を下げて笑うから、もうほんとうにこっちがどうしようだよ。
腕を引いて抱き止める。ああ。ひとつ知ってしまえばもっと欲しくなる。短く触れるだけのキスをして乱れた髪を指ですく。

「立てそう?」
「うん、」



窓から吹き込む生ぬるい風すら今は涼しく思える。




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