サンダルウッドの情念
39.青痣



関東大会決勝戦に向け練習内容は益々熱を増して先輩たちも気合が入っている。立海大は強敵だ。新技COOLドライブを完成させるべく自主練に熱中する。

「あれ、ガット全部ダメになっちゃったの?珍しいね。」

ガットの切れたラケット3本を眺めて途方に暮れていると後ろを通りかかった名前が隣にやってきてそのうちの1本を拾い上げた。

「あらら。ブチブチじゃん。」
「…これじゃ練習になんないし張り替えに行ってきてもいいかな。」
「うん、仕方ないよね。副部長には私から言っておく。」
「サンキュ。」

顔を上げると思ったより近くに名前の顔があって、なんとなく目を閉じてみると眉間を指で弾かれた。

「痛…。」
「だめ。」
「俺何も言ってないけど?」
「嫌な予感がした。」
「キスは嫌なコトじゃないじゃん。」
「ここでするのは嫌だもん。」
「…お楽しみのところ悪いんだが」
「!」

ぬ、と影が出来て、慌てて振り返ればそこには長身の乾先輩。その手にはメモ用紙が握られている。なにそれ、地図?

「越前。ガットを張り替えに行くのか。ただし3本一気にやってくれる店はこの近辺には無いな。…となると、」

待って乾先輩。嫌な予感、がするんだけど。
名前はほらバチが当たったなんて言って笑ってこちらにラケットバッグを差し出した。
片道20km超の大型スポーツショップまでパワーアンクルをつけて走っていくことに… こんなの車で走る距離じゃん。






神奈川のスポーツショップまでガットを張り替えに走った帰り道。上がった息を整えていると向こうから足音と、知ってる単語が聞こえてきて、歩道橋を見上げた。「青学戦」「手塚」「あとは雑魚」そして

「本当のテニスができんのってあの人くらいでしょ。」

黒く癖のある髪。その後ろ姿、知ってる。俺はあんたを知っている。

「ねえ。」

俺にも本当のテニスって奴、教えてくんない?





高圧的にこちらを挑発する切原赤也に続いて近くのテニスクラブのコートに入った。
ツイストサーブをお見舞いすれば俺のこと潰すなんて言ってくる。空気がヒリついて心地いい。そういえば月刊プロテニスの記者の人が言っていた。一本足でのスプリットステップを使う中学生が関東にもう一人いると。お互いアンクルとパワーリストを外して1ゲームが終わる頃、切原のスマッシュが俺の右膝に直撃した。切原の赤く充血した目。ナックルサーブ。痛む膝。脳裏によぎったのは恋人の顔。ああ、帰ったらまた心配させちゃうな。









「…?」

気がつくと夜。どうやら眠っていたようだ。どこだここ。ああ、自分の部屋か。切原と試合して、膝を潰されそうになった後どうなったっけ…?

「…まあいいか。」

思考を放棄して枕に埋もれる、その一瞬、視界のすみで捉えた姿に一拍遅れて飛び起きた。

名前。

「ほあら…」

俺の背に乗っていたらしいカルピンは低く文句を言って部屋を出て行く。枕元を見れば、名前が、ベッドに突っ伏すようにして眠っていたのだった。
いつからここに居たんだろう。柔らかな髪を撫でれば名前は薄く瞼を開けた。

「名前起きて。風邪ひく。」
「…りょま、?」
「うん。」
「よかっ、た、気付いて。」
「うん。…ごめん。」

やっぱり心配かけてしまった。一晩中そばにいてくれたらしい名前に頭が下がる。
まだ寝ぼけているのか名前はうつらうつらと瞬きをして、その姿勢のまま再び眠ってしまいそうになっていた。今にも閉じてしまいそうな目にかかる前髪をかき分けて撫ぜる。

「おいで。」
「…うん。」

ベッドに引き上げると横に寝転んだ名前はすぐに静かな寝息を立てて眠った。肩まで布団をかけてやるとこちらの腕にしがみついてこれがまるで大事なものであるかのように額を寄せた。切原とテニスをした時、今まで感じたことのない不思議な感覚に陥った気がする。あれは夢か現実か。途切れ途切れの記憶を思い返しては隣から聞こえる愛しい寝息に耳を澄ませ意識を手放した。







窓から差し込む光と鳥の声に、朝が来たことを知る。重たい瞼を開けばすぐ目の前に名前がいて、眩しさに思わずくらりとする。時間を確認しようと時計を見上げたとき、隣で名前が身じろいだ気配がした。

「ごめん起こした。」
「おはよ…」
「うん。おはよう。」

いつもなら俺より早起きの名前の珍しい姿に思わず笑みが溢れる。
ゆっくりと上体を起こした名前の後ろ髪が跳ねていてその無防備さに愛しさが込み上げた。こんな姿の名前を知る人は数少ないだろう。

「あ、リョーマ膝平気?」
「ああ、そうだった。…あれ。もしかして昨日アイシングしてくれた?」
「うん。簡単にだけど。痛い?」
「痛いは痛いけど、そんなに。」

いつの間にか湿布とテーピングが巻かれた膝を名前が優しく触れてくる。患部は痛むが関節や筋がやられた感覚はないので程度は見た目ほどひどく無いのだと思う。

「そういえば俺昨日どうやって帰ったの。」
「迎えに行ったの。南次郎さんにお願いして車出してもらって。」
「よく場所分かったね。」
「立海の人から連絡あったから。」
「…誰、からか、って聞いていい?」

自分で口にしておきながら嫌になった。そんなこと気にしなくたって名前は俺と付き合っているんだし、だれが名前の連絡先を知っているかとか、そんなの。もうどうだっていいはずなのに。

「切原くん。電話口で話したのは三年の方だったけどね。」
「…そう。」
「4月頃だったかな、切原くん一度青学に来たことがあったじゃん。そのときに連絡先交換してて。」
「来てたっけ。全然知らない。」
「練習試合計画しましょうって言われてたんだけどそれ以来結局音沙汰なかったから、昨日突然連絡きて何事かと思っちゃった。」


…あいつのことだから練習試合なんて口実だったんだろうなと思う。でもおかげで無事に帰れたのだし責めることはできないけれど…

「それよりリョーマ、他に痛いところない?」
「ん。平気。」
「よかった。帰ってきてからずっと寝てたからお腹空いたでしょ。下行こう。」
「…うん。腹減った。」

名前の寝癖を撫でると首を傾げてこちらを見る。ああ腹が減る。乱れた髪、着崩れたパジャマ、俺のベッドに居る好きな人。
音を立てて唇を奪う。数度角度を変えて重ね、舌で閉じた口を割ろうとすると肩をぐっと押された。

「…朝からやめて。」
「朝じゃなかったらいいの。」
「ばか。」

昨日のいつだったかのように眉間を弾かれる。名前はさっさと部屋を出て行ってしまった。あーあ。逃げられちゃった。





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